「 天皇制国家の危うさ 」
“兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。” (新約聖書・ローマ人への手紙10章1節)
<解説>
〜2013年現在、安倍総理のもと、日本国憲法の改訂問題が浮上してきています。すでに2012年決定の自由民主党案も出されています。改めて、この国と将来のことを考えていきましょう。
その中で、現行憲法もそうなのですが、「天皇制」というものが、憲法の中でも掲げられています。自民党案では、それが一層強められています。
自民党案では、前文でまず「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって・・・」から始まっているのです。歴史の中で、天皇制度が維持されてきたのは事実ですが、それが未来永劫に日本国の固有の制度のように憲法でうたうことが、この国と将来に益となるのか考えていきたいのです。
〜天皇というのは大変宗教的な存在です。
現在でも皇室神道(広く言えば、アマテラスオオミカミや神道)の最高の祭司王ですし、神事を多く執り行っています。そうした特定の宗教的な存在を、国家の制度として、国事行為をさせたり(憲法第1章の様々な国事行為や公的行事)、それをもってこの国のシンボル(象徴)としていてよいのか、ということです。
そのことは政治、思想、宗教の分野で、目に見える強制力は少ないとしても、それをもって公的とする、ということにおいて、神道的なものや宗教観に特定の立場を与える暗黙の強制力につながっている可能性があります。
それでよいでしょうか。
そのために
(1)親しみを込めて、明仁(あきひと)さんや美智子さん、徳仁(なるひと)さんや雅子さん、などと、すべての人をごく普通の人としての敬称で呼ぶこと、
(参考:明仁(あきひと)さんと美智子さんの、長男が徳仁(なるひと)さんと雅子さん、その子どもが愛子さん、次男が文仁(ふみひと)さんと紀子さん、その子どもたちが眞子さん、佳子さん、悠仁(ひさひと)さん。)
(2)人々の中にある「天皇信仰」(天皇を何か、ありがたがったり、それがなければ日本的でないと思ったり、特別なものととらえてしまう「信仰」)について、理解を深める、
(3)国家が特定の宗教だけと結びつかないという、国家と宗教団体との分離(いわゆる政教分離)の原則から、天皇教のすべての民営化を志す、
などが、入ってきます。
総理大臣の任命、最高裁判所長官の任命、すべての法律の公布、国家行事などを、アマテラスオオミカミやテンノウの名ではしたくない、という日本国民の声です。
数年前の徳仁さんの「人格否定」発言は、1つの象徴的な現われです。国民の名において、たとえ少数の人であったとしても、非人格的な状況に押しやって、まつりあげたり、喜んでいてはならないと、考えます。
宗教的なものはすべて民営化し、真の意味での「信教の自由」を確立し、普遍的なものへと人々を解放しなければなりません。
偶像礼拝(カミでないものをカミのようなものとする)があってはならないのです。
(キリスト者の皆さんには申し上げます。皆さんは右手では、聖書の「主」を高く掲げながら、同時に左手では、自分を含めたこの国と国民統合のシンボルは(つまり私のシンボルは)「天皇」だ、とそれを高く掲げていてよいのでしょうか。
ごいっしょに考え、祈っていきましょう。)
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[リンク]
<天皇制度は宗教です>
<天皇・皇室の主な儀式・行事>並びに<日本国憲法第1章>
<宮中三殿>
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<参考図書>
高橋 紘 「天皇家の仕事」 (1993年 共同通信社)
毎日新聞社 「平成の皇室事典」 (1995年 毎日新聞社)
井沢 元彦 「日本人だからかえって知らない 仏教・神道・儒教集中講座」 (2005年 徳間書店)
谷 朝子 「宮中賢所物語 五十七年間 皇居に暮らして」 (2006年 ビジネス社)
ベン・ヒルズ 「プリンセス・マサコ 〜菊の玉座の囚われ人〜」 (2007年 第三書館)
板垣 恭介 「明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか ーーー 元宮内庁記者から愛をこめて」 (2006年 大月書店)
井沢 元彦・島田裕巳 対談 「天皇とは何か」(2013年 宝島社新書)