「聖書の教え〜聖書信仰問答〜」
聖書の信仰、再確認。 ぜひご覧になってみてください。
1.聖書 2.まことの神、主 3.人間 4.救い主イエス・キリスト 5.聖霊
6.救いと信仰 7.教会生活 8.信仰者の目標 9.終わりの時
(できれば、それぞれの聖書の個所を開いて、聖書のことばを読んでください)
聖 書 の 教 え
== 聖 書 信 仰 問 答 ==
日本同盟基督教団 長野めぐみ教会
序
問1 人生の主な目的は何ですか。
それはこの世のただ中で、人間の幸福のみではなく、まことの神、主のすばらしさをあらわすことです。そして心から主を喜び、主をほめたたえることです。 (→問92参照) (Tコリント10:31、ローマ11:36、詩73:25〜28)
〜まことの神、主のすばらしさ! 主を喜び、主をほめたたえる人生。 これこそ人生のすばらしさ、目的。 神に栄光、人には祝福 これを祈る人生!
問2 あなたがそのために知らなければならないことは、いくつありますか。
3つです。
@わたしたちが生かされている背後に多くの身代わりの犠牲があったこと、またわたしたちが愚かにも罪を犯してきたこと、
Aわたしたちがその罪の状態から救われるために、どのような道が備えられたかということ
B救われたわたしたちが、お救いになられたまことの神、主に対してどのような感謝をささげていくことができるか、ということです。
一言で言えば、まことの神、主、わたしのご主人様、全世界の主を正しく知ることです。
(ヨハネ17:3、出エジプト13:12〜15、ローマ3:10、23、テトス3:3〜7、Tコリント6:20)
T 聖 書
問3 わたしたちは何によって、まことの神、主とその主の御旨(みむね)とについて正しく知ることができますか。
主のみことばである聖書によって、それを正しく知ることができます。
(Uテモテ3:15〜16) (→問8参照)
問4 主のみことばである聖書は、全部で何巻ありますか。
聖霊によって教えられた人たちによって書かれた聖書は旧約聖書の39巻、新約聖書の27巻、合わせて66巻あります。
(Uペテロ1:21)
問5 聖書はどのような意味において、まことの神、主のことばですか。
それは原典において逐語霊感(ちくごれいかん)、すなわち主としてヘブル語、ギリシャ語によって記された原典において66巻のすべてが誤りのない神のことばである、ということです。 (黙22:18〜19)
問6 聖書の中心は何ですか。
わたしたちの救い主であられる主イエス・キリストと、その方を通しての罪のゆるしと救いの道、それが聖書の中心です。 (ヨハネ20:31、テトス3:3〜8)
問7 聖書はわたしたちにとって、何の基準になりますか。
わたしたちが主と主の御旨(みむね)とについて、何を信じるべきか、また救いを受けたわたしたちがどのような生活をし、どのような感謝をささげていくことができるか、それについて語られる、ただ一つの絶対的なそして普遍的(ふへんてき)な基準です。 (Uテモテ3:16〜17、ヘブル4:12〜13、Tペテロ1:23〜25)
U まことの神、主
問8 聖書は生けるまことの神、主について何と教えていますか。
主は、直接目には見えませんが、世界のはじめからみことばをもってご自身をあらわし、世界の歴史に生きて働かれた聖なるお方である、また生きた人格をおもちになる「力と愛の主である」と教えています。 (ヘブル1:1〜2、エペソ2:4〜8)
〜力と愛の主! これがまことの神、主。
問9 主はどのような性格をおもちですか。
まことの神、主の属性といいますが、それは、愛、全知、全能、永遠、不変、遍在、正義、聖、完全などです。 (Tヨハネ4:9〜10、詩139:1〜4、マタイ19:26、創21:33、マラキ3:6、詩139:7〜10、詩89:14、レビ11:44、Tヨハネ1:5)
問10 神、主は、たくさんおられますか。
いいえ、ただおひとリ、全世界、全宇宙で唯一の、生きたまことの神、主です。
(Tコリント8:4〜6、ローマ3:30、Tテモテ6:15〜16)
問11 主の三位一体(さんみいったい)とは何ですか。
唯一のまことの神、主がもともともっておられる在り方、交わりにおける霊性ですが、特にわたしたちの 救いのために強くあらわされた父、子、聖霊の在り方で、本質においては一つです。 (ヨハネ3:34〜35、15:26、16:13〜15、ローマ9:5、Uペテロ1:1〜3、Tヨハネ5:20、ヘブル1:3、Uコリント13:13) (→問26参照)
<参考:高きにいます聖なる神(創造主・父)、へりくだって私たちの所に来てくださった神(救い主・子)、私たちの内に生きて働いてくださる神(聖霊)〜それ全体でまことの神、主> (キリスト中心的にみれば、父なる神としてのキリスト、子なる神としてのキリスト、聖霊なる神としてのキリスト)
問12 三位一体の神、主はこの世界のはじめに何をなさいましたか。
三位一体の神、主はこの世界のはじめに天と地とをつくられました。そして、わたしたち人間がこの地上に生きるようにしてくださいました。このまことの神、主が全宇宙の創造者です。 (創1:1、詩104:1〜25、ヘブル1:1〜2)
V 人 間
問13 人間ははじめにどのようにつくられましたか。
人間は神、主のかたちに似せてつくられました。神の尊(たっと)い作品であり、生きた人格、主体性、創造性、独自性、霊性などがそれです。その結果、真の知識と聖(きよ)さと主との正しい関係とを、もっていました。 (創1:27)
問14 人間は主との正しい関係を守りとおしましたか。
いいえ、人間は主のいましめにそむいて罪をおかし、主との正しい関係をそこなってしまいました。 (ローマ5:12)
問15 聖書のいう罪とは何ですか。
罪とはまことの神、主にそむいて従わないこと、神をあなどること、人間の力しか信じないことです。自分を造られ、愛しておられるまことの神、主がおられるのに、それを認めないことです。その結果の自己中心です。自分の弱さや限りある者であることがわからないこと、神との関係や応答や責任のないことで、無責任に通じます。またすべての不義、愛のないこと、なすべき正しいことを知っていながらそれを行なわないこと、すべて信仰によらないことも、罪です。
(イザヤ59:2〜3、Tヨハネ3:4、マルコ7:20〜23、マタイ22:36〜40、ヤコブ4:17、ローマ14:23、Uテモテ3:2〜5)
問16 人はその結果、今どのような状態におかれていますか。
人は罪の中に生まれ、また罪の中に生きることをよぎなくされています。そして、まことの神、主を知らず、主の御旨(みむね)にそむいた歩みをしつつ、悲しみのうちに、希望のない日々をおくっています。生きてはいても霊的には死んだ状態です。
(イザヤ30:1、ヨハネ8:24、34)
問17 それでは人は自分の努力によって神、主の前にふたたび正しい者として生きることができますか。
いいえ、自分の努力によってはできません。なぜなら、人はすでに罪をおかしてしまい、また神なくしては日ごとに罪をおかしている罪人(つみびと)だからです。
(ローマ7:15、24、9:16)
問18 わたしたちがこのまま、まことの神、主から離れて罪の中に生きつづけますと、終りはどうなりますか。
終りの時に、主の裁きを受けて、永遠の滅びに至ります。
(Uテサロニケ1:8〜9)
W 救い主イエス・キリスト
問19 それでは、主のみ前において、わたしたちの救いとは何ですか。
救いとは、罪がゆるされること、神との和解、神と共なる生活です。わたしたちの努力とは正反対に、主がわたしたちのためにさし出してくださった神からの救いの道、唯一の救い主イエス・キリストがわたしたちにとっての救いです。救い主イエス・キリストは、道であり、真理であり、いのちであって、わたしたちを罪と死と滅びから救ってくださいます。
(詩篇51:7、イザヤ1:18、ヨハネ14:6) (→問29参照)
問20 真(しん)の、神との仲保者、救いの道である主イエス・キリストとはどのようなお方ですか。
父なる神のひとり子とも言い表され、父、子、聖霊なるまことの神、主の一つのお姿で、まことの神であられて、まことの人となられたお方です。
(ヨハネ1:14) (→問11参照)
問21 神であって同時に人間であるとはどういうことですか。
ただ一度、主イエス・キリストが、そのことを完全にあらわしてくださいました。このお方こそ、人間の姿でありつつ、神の真実をご自身、神として明らかにしてくださいました。全能の神は、強さと共に弱さにもなることがおできになるのです。またすべての「人間が」神様の愛の対象だからです。そのためです。
(ピリピ2:6〜9、ヘブル9:12、Uテサロニケ2:16、Tテサロニケ3:11)
<参考:主ご自身が直接来られたのでは、私たちは生きていかれないのです。私たち人間に合わせて、人としての姿をとってくださいました>
問22 主は何をもってわたしたちの救い主となられましたか。
主イエス・キリストはわたしたちの罪のゆるしのために十字架にかかって死なれ、神による刑罰をわたしたちの代わりに受けてくださいました。そのことによってです。そして神とわたしたちそしてこの世界とを和解させ、ゆるされた一つの世界、神の国としてくださいました。
(Tペテロ2:24、コロサイ1:19〜20)
問23 それでは、すでにこの世は神の国なのですか。
確かにそうです。しかし、わたしたちが自動的に機械仕掛けのように救われるのではなく、主に似せてつくられたものとして、自らの自由と責任において救われるために、主は忍耐をもってわたしたちが主に帰ることを待っておられます。不信仰の目には神の国はまだ、おおわれて見えますが、キリストにあってはすでに神の国です。 (マタイ12:28)
問24 イエス・キリストは十字架上で死なれたままでしたか。
いいえ、そうではありません。死んで墓に葬られましたが、3日目にその死よりよみがえり、永遠に今も生きておられます。そしてわたしたちの罪のゆるしと、主とこの世界との和解が完全に得られたことを保証なさいました。 (Tペテロ1:3)
問25 主イエス・キリストはいまどこで何をしておられますか。
主イエス・キリストは天に昇り、父なる神の「右の座」に着かれ、今もわたしたちのために、父なる神のみ前にとりなしをしてくださっています。また、聖霊としてわたしたちの内とこの世界とに生きて働いてくださっています。生きた主です。 (ローマ8:34)
<参考:神の「右の座」とは、旧約時代に神殿の右側に王の宮殿が建てられたことから、全世界を治める「王座」に着かれたことを表わしている>
V 聖 霊
問26 聖霊について説明してください。
聖霊とは、私たちの内に生きて働く神ご自身です。私たちの目には見えない霊なるお方です。父、子、聖霊なるまことの神、主の一つのお姿で、聖霊も主ご自身であられるまことの神です。 (使徒5:3〜4、Uコリント3:17〜18)
問27 聖霊はどのような働きをなされますか。
聖霊は、聖書のみことばをとおして、わたしたちにまことの神、主と救い主のことを明らかにしてくださいます。またわたしたちに罪を認め、主を救い主と受け入れるよう、導いてくださいます。 (ヨハネ16:8、13)
問28 聖霊は主にある者たちにどのように働いておられますか。
聖霊は主にある者の内に住まわれ生きて働き、そして主の御旨(みむね)を行なうように導き、困難な時には慰め、励まし、また主にある者を信仰においてますます強め、支えてくださいます。 (ヨハネ14:17、26、ローマ8:26〜27)
Y 救いと信仰
問29 わたしたちの罪のゆるしは、どうしたら与えられますか。
わたしたち人間の罪は正当な罰を受けることによって、ゆるしが与えられます。また罪人(つみびと)をもゆるされる神の愛が、ゆるしを与えます。けれどもわたしたちは、まことの神、主の怒りと愛を正しいと認めないだけでなく、罪を罪とも思いませんし、罰を受けようともしないのです。 (マタイ16:26、エズラ9:15、ヘブル9:22)
問30 それではわたしたちは、どうしたらこのまことの神、主のみ前に救いにあずかり、正しい者として受け入れられることができますか。
神の救いイエス・キリストを知って、それまでの数々の犯してきた罪、また無信仰による生まれながらの罪を心から悔い改め、わたしのための十字架の救い、主イエス・キリストを信じ受け入れる、その神の恵みと信仰によります。そのままで、神イエス・キリストのもとに来て、信じて悔い改めて、イエス・キリストに従う具体的な第一歩をふみ出すことです。どんな人でも、ただ恵みにより、信仰によって救われるのです。主イエス・キリストにおいてすでになされた神のみわざに対して、心の目が開かれさえすれば、それでよいのです。 (ローマ10:9、エペソ2:8、Tペテロ2:24)
問31 イエス・キリストを信じる信仰とは何ですか。
信仰とは、わたしたちの内に働く神の力、神の賜物です。そして、まことの神、主を正しく知ることです。そしてその主による、主に対する全き信頼です。「キリストが、わたしの罪をゆるすために十字架にかかって死んでくださった」ことを信じることです。主は今も、あなたに語りかけておられます、「あなたは一体どこにいるのか」、「何をしているのか」、そして「わたしに従ってきなさい」と。 (ローマ8:28、ヨハネ1:12、Tテモテ1:15)
問32 それはくり返し、くり返し語りかけられる神のことばですか。
確かにキリストこそ神のことばです。この語りかけにわたしがどう応(こた)えるか、それが信仰でもあります。今、次のようにお祈りして、キリストを信じる決心をしてください。「主イエス様。わたしは自分が罪人(つみびと)であり、あなたのゆるしが必要であると知っています。わたしはあなたがわたしの罪のために死んでくださったことを信じ、罪から離れたいと思います。今、わたしの心と生活の中に、主として、救い主として、お入りください。わたしは自分の生涯をあなたにおゆだねし、教会の交わりの中で、あなたにお仕えします。わたしの祈りを聞いてくださったことを感謝します。救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。」
(ヨハネ1:1、Tヨハネ4:10)
問33 救われた者はどうなりますか。
まことの神、主との正しい関係が回復し、主と共に生き、神と人とを愛し、他者を尊重し、愛に生き、愛に生かされ、恵みから恵みへと成長させられます。そして罪と死と滅びの道から、愛とゆるしと永遠のいのちという祝福の道へ入れられます。 (ローマ8:37〜39、6:23)
問34 永遠のいのちとは何ですか。
滅びることのないいのちです。しかし限りあるこの地上の生涯では、死んでも死なない復活の恵みとして与えられます。霊的な死、この地上的な死、そして永遠の死に対して、霊的な復活、この地上的な生涯の後の復活、そして永遠のみ国の完成という永遠の復活として与えられます。しかも生きている内にこの世の終りの日が来た者は、この地上的な死を味わうことなく永遠のみ国に入れられます。 (コロサイ2:12、Tコリント15:50〜58、Tテサロニケ4:17)
問35 霊的な復活はいつきますか。
主イエス・キリストを信じた時です。霊的な死の状態にあったわたしたちが、救われ、新しく生まれ変わることができます。主と共なる永遠のいのちの生活のはじまりです。 (ローマ6:5〜11、コロサイ3:1)
問36 わたしたちにとって、この地上的な生涯の終りにくる死とは何ですか。
生きてきた生涯を集約し、それを永遠のものとして記録にとどめる厳粛な区切リの時です。それ以後、わたしたちはこれを変えることはできません。 (ルカ16:26)
問37 死後、救いはありますか。
この地上で生きてきたそのことによって裁かれます。まことの神、主と救いの道イエス・キリストを知りつつ、それを受け入れなかった者は、死後、救いの道はありません。まことの神、主や救い主イエス・キリストを全く聞かなかった者には、その与えられていた光に従ってどうふるまったかを、まことの神、主が厳粛に判断なさいます。 (Uコリント5:10、ローマ2:11〜16)
問38 救われた者にとって、この地上的な死の後にくる復活とは何ですか。
からだも含めた全人的な復活で、目に見えない天のみ国で主と共に永遠に生きるために、霊のからだをもって復活します。限りあるこの地上での生活に別れを告げ、死んでも生きる新しいみ国での生活への出発です。聖書が「最も大事なこと」として教えているのは、この死と復活のできごとで、これこそ永遠のいのちに至る、罪と死からの全き救いです。 (Tコリント15:42〜49、3〜5)
Z 教会生活
問39 まことの神、主は救われた者をこの世で守られるため、保護の備えをしておられますか。
はい、しておられます。それこそ教会であり、信じる者たちの群れ、主の栄光の輝きと呼ばれるキリストご自身のからだです。 (エペソ1:22〜23)
問40 教会の中心であられる方は、どなたですか。
もちろん、わたしたちの主イエス・キリストです。わたしたちは皆このキリストに結びついて生かされ、生きていきます。 (コロサイ1:18)
問41 教会とは「誰」ですか。
主は、教会はキリストのからだ、わたしたち一人一人がその肢(えだ)である各器官です、と言われました。その意味では、キリストこそ教会です。またわたしたち一人一人が教会のかけがえのないひとつひとつの器官でもあるのです。主にあって、主と共に「わたしたちが教会」「わたしが教会」なのです。 (Tコリント12:27、エペソ2:19〜22)
〜教会とは「誰」か、これが1つの問いでもあります。
問42 教会では何をしますか。
神の家族となるために、心からわたしたちの造り主であり、救い主である主に、さんびと礼拝をささげ、聖礼典を行ない、キリストによる福音をすべての人々に宣べ伝えつつ、共に生きていきます。 (マタイ28:19〜20)
問43 礼拝とは何ですか。
神との会見です。そして、わたしたちの心からのささげものです。主のみことばの説き明かしである説教と聖礼典とをとおして、神、主がわたしたちにお語りくださり、またわたしたちの賛美と祈りと献金とをもって、主にお応(こた)えします。賛美と感謝と祈りと主の臨在、それこそまことの主にある礼拝です。 (詩100:1〜5)
問44 聖礼典とは何ですか。
主がイエス・キリストをとおして教会に与えられた聖なるしるし、目に見える主のみことばです。これは主のみことばの説教とひとつとなって、主の御旨(みむね)をわたしたちに一層明らかにします。 (マルコ16:16、Iコリント11:23〜26)
問45 聖礼典にはいくつありますか。
2つです。それは、洗礼と聖餐です。 (使徒2:41〜42)
問46 洗礼とは何ですか。
水による聖礼典です。それによって、わたしたちがキリストの十字架の死とよみがえりによって、罪をゆるされ、新しく生まれかわった者であることが確かにされます。 (ローマ6:4、コロサイ2:12〜15)
問47 心の中で信じるだけではいけないのですか。
わたしたちの生活が目に見えるものであると同じように信じる信仰は、実際の生活となって実を結びます。その時、洗礼も主からの目に見える恵みの手段として、受け入れることができます。 (ローマ10:9〜10)
問48 聖餐とは何ですか。(読む時は「ぶどう酒」のみで可)
パンとぶどう酒(液)による聖礼典です。それによってわたしたちは、主のみことばを耳で聞くだけでなく、目で見、体で味わうことができます。パンはわたしたちの罪のゆるしのためにさかれた救い主キリストのからだをあらわし、ぶどう酒(液)はわたしたちの罪のゆるしのために流されたキリストの血をあらわします。洗礼は一回限りですが、聖餐はくり返し行なわれます。くり返しの中で、わたしたちの新しいいのちが養われ成長していきます。 (Iコリント10:16〜17、11:26)
問49 聖餐を受けるにふさわしい人とはどういう人ですか。
聖餐を受ける資格は、自らをよく吟味することです。聖餐を受けるにふさわしくないと、自分の罪を悔い改める者こそが、受けるにふさわしい者です。主により頼まなければ聖(きよ)くなれないとへり下っている者です。 (Iコリント11:28、ルカ18:13)
問50 キリストの福音を宣べ伝える働きとは何ですか。
それは、すべての人々に、まことの神、主のみ前における生まれながらの罪の状態を説き、それに対する救い主イエス・キリストにおける罪のゆるしと救いを受け入れるようにすすめ、そしてみ国の一員として信仰によってこの主キリストと共に日々を歩むようにと、主とその全き救いと神のみ国とを宣べ伝えることです。いかに生きるか、そして死んだらどうなるか、です。私たちは滅びるたましいを見過ごしにしていてはなりません。いつでも主を証しし、人々をこの救いに導かなければなりません。 (Uテモテ4:2)
問51 その他に、主はわたしたちの日ごとの生活の助けとなる具体的な指針を与えておられますか。
はい、聖書を読み、主に祈り、実際的な信仰生活をこの世にあって教会の一員として生きぬくことですが、その中でも、十戒と主の祈りは、実際的な指針です。 (出エジプト20:1〜17、マタイ6:9〜13)
問52 聖書を読む生活の助けを示してください。
はい、聖書の全巻を通読する、また「聖書日課」の参考書を用いて読み続ける、などは大いに助けになります。ぜひ試みてください。
問53 まことの神、主に感謝するとはどういうことですか。
主の恵みと救い主イエス・キリストを心から喜ぶことですが、心の中だけでなく、よい行ない、よい生活をも愛することです。 (ローマ5:11、ピリピ2:10〜11、Tペテロ2:5)
問54 主に喜ばれるよい行ないとは何ですか。
主のみことばに従って行なう行為、また、どうぞわたしをあなたのみわざの道具としてください、と言ってささげて行なう行為です。主を礼拝すること、主をほめたたえること、主を賛美し喜ぶこと、主にお従いすること、そして主の栄光をあらわし、人々を愛し、祝福することです。 (ローマ6:13、Iコリント6:19〜20、エペソ2:10)
問55 主の十戒とは何ですか。
十戒とはモーセを通して与えられた、まことの神、主による十の戒めです。十戒はわたしたちに、罪の自覚をうながすとともに、主にある生活のあり方を教えます。主のみことばに従うことは、旧約聖書であれ、新約聖書であれ、とても大切です。 (ローマ3:20、マタイ5:18)
問56 では、十戒を主の愛の戒めとして心におぼえましょう。
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
(1)あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
(ただ主のみを神とせよ) (もう他の神々をカミとする必要はないでしょ)
(2)あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。 (造るな、拝むな、仕えるな) (もう造ったり拝んだりする必要はないでしょ)
(3)あなたは、あなたの神、主の御名をみだリに唱えてはならない。 (自分の欲求のために主の名を乱用するな) (もうまじないやのろいのために御名を乱用する必要はないでしょ)
(4)安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 (主の日を聖別せよ。休め、祝え)
(5)あなたの父と母を敬え。 (成人であるあなたがまず)
(6)殺してはならない。 (人を生かせ) (もう人を殺す必要はないでしょ)
(7)姦淫してはならない。 (きよくあれ。暴力で人格の尊厳をおかすな) (もう姦淫する必要はないでしょ)
(8)盗んではならない。 (むしろ与えよ) (もう盗む必要はないでしょ)
(9)あなたの隣人(となりびと)に対し、偽リの証言をしてはならない。 (真実であれ) (もうウソをつく必要はないでしょ)
(10)あなたの隣人(となりびと)の家を欲しがってはならない。 (人のものは人のもの) (もう人のものを欲しがる必要はないでしょ)」
(出エジプト20:1〜17、申命5:6〜21)
問 57 十戒を現代風に言いかえてみてください。
=十戒を現代に=
「わたしは、あなたを罪の世界から救い出し、あなたを完全な愛をもって愛している、あなたの神、主です。
ですから、あなたは、
1.全世界の創造主、唯一のまことの神だけを、神としなさい。
2.神を形に刻んで拝む必要はありません。
3.いたずら半分に神の名を唱えてはいけません。まじないや占い、霊信仰に気をつけなさい。
4.一週間に一度は休みの日を持ちなさい。日曜日を、神を礼拝する大切な日として守りなさい。人間にとって神を信じる信仰生活は大切です。
5.あなたの両親、家族、先祖や目上の人を大切にしなさい。
6.いのちを大切に。絶対に人を殺したり、自殺をしてはいけません。
7.不倫やセクハラ、弱い者いじめをする必要はありません。
8.万引きや泥棒は、犯罪です。人のものを盗ったり、借りたままにしていてはいけません。
9.ウソをつく必要はありません。
10.他の人の家や財産を、むやみに欲しがったり、うらやんだりしてはいけません。人のものは人のものです。」
問58 わたしたちの主イエス・キリストはこの十戒をどのようにまとめて言われましたか。
主イエス・キリストは、前半の4つをまとめてそれは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、後半の6つをまとめてそれは「あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛せよ」と言われました。主は言われるのです「わたしがあなたを愛したように、あなたがたも愛しなさい」と。
(マタイ22:37〜40)
問59 主の祈りとは何ですか。
主イエス・キリストが弟子たちに教えられた祈りです。それは、わたしたちに祈りを通して心をまことの神、主に向け、主に信頼を寄せるよう、またわたしたちが何を祈るべきかを教えてくれる、大切な祈りです。 (マタイ6:9〜13)
問60 では、主の祈りをともに祈りましょう。
「天にまします我らの父よ。ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。み国をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪よリ救い出したまえ。国と力と栄えとは限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」 (ルカ11:1〜4)
問61 主の祈りを少し解説してください。
まず、主への呼びかけ、そして主のみ名、主のみ国、主のみ心と、まことの神、主に対する祈りがあり、それから日々の生活に対する祈りや、罪の悔い改めやゆるしやとりなし、そして信仰の宣言となっています。アーメンとは、真実に、まことに、心からという意味です。
問62 祈りとは何ですか。
神との会話です。日ごとの恵みに対する感謝や、主への賛美、そして主に対する願いや悔い改め、またとリなしの祈りなどがあります。 (歴代U 7:14、ヤコブ1:5〜6)
問63 わたしたちはいつ祈るべきですか。
いつでも祈れます。できれば一日のはじめや終りに時を定めて祈ることはすばらしいことです。また時には徹夜の祈りや、断食をしての祈りなどもあります。 (マルコ1:35、9:29*、ルカ6:12)
問64 賛美とは何ですか。
わたしたちの救いの主に向けられ、ささげられる最高のささげものです。心から主を賛美し、主の栄光を歌うことはキリスト者の特権です。 (詩135篇)
問65 献金とは何ですか。
わたしたちのすべては主のもの、また主からのものです。そのことを知り、わたしたちが主にささげる心からの「感謝と献身のしるし」それが献金です。強いられても、いやいやでもなく、心から自らの思いと信仰をとおしてささげられる聖(きよ)いささげものです。 (Uコリント9:7、マラキ3:8、ローマ12:1)
問66 キリスト者のこの世にあっての主な務めは何ですか。
主を証しすること、主を宣べ伝えること、またそのみ国の一員として、キリストと共に世とすべての人々とを愛することです。そしてこの世の中にあって、どんな時にもキリストに従い、主の栄光をあらわし、主のみからだなる教会として、力の主、愛の主を信じて、その神のみ国をすべての人々に広めていくことです。 (Uテモテ4:2、ヨハネ3:16)
問67 もう一度、救いと信仰の大切な点を言ってください。
@恵みによって、ただ信じるだけで無条件に人を救ってくださるまことの神、主の愛、と A人を恐れることなくどんな時にも主に従う主への服従の生活、その二点です。まことの神、主と共なる生活、それこそいのちだからです。まことの神、主によって生かされ、導かれているのに、そのまことの神を信じない、そして感謝したり、礼拝したりしない生き方こそむしろ悲しみです。 (Iコリント13:13、マタイ10:28、ヨハネ15:4)
[ 信仰者の目標
問68 主イエス・キリストを信じて生きる者には、どのような目標があるのですか。
すでになされた主イエス・キリストによる救いの完成に従いつつ、イエス・キリストのかたちになるという目標があります。個人的な生活や、愛の人、正義の人に変えられることと共に、主をかしらとする神のみ国をも意味しています。 (コロサイ3:9〜10、ピリピ3:21、Uコリント3:18)
問69 その目標に生きるためには、何が必要ですか。
主への服従と、なお最後の戦いをいどんできている罪との戦いに勝ちぬくことです。そして、今、現在キリストならどうするか、そしてわたしたちがどうすればキリストに従ったといえるかを、常に心にとめることです。 (Iコリント9:24〜27、ガラテヤ4:19)
問70 信仰者の生活にはどのような面がありますか。
常に三つの面、すなわちまことの神、主に対する面、人に対する面、そしてサタンの力に対する面があります。主イエス・キリストにあるわたしたちの地位[主に対する面]、この世におけるわたしたちの生活[人に対する面]、敵に対するわたしたちの戦い[サタンの力に対する面]、これらの三つ、すなわち信じる者の地位、生活、戦いにおいて、どれかを過小に評価するならば、その人は十分に主の要求を満たすことはできません。 (エペソ2:6、4:1、6:11)
問71 わたし自身、個人としてその罪との戦いを戦うのですか。
神の家族、教会の一員としての罪との戦いです。わたしの罪との戦いは、教会の罪との戦いですし、教会の戦いがわたし自身の戦いです。 (ピリピ1:7、14、4:14)
問72 教会としてわたしたちが経験することはどのようなことですか。
(1)キリストにある栄光と苦難です。キリストと教会との関係は、かしらであるキリストと、仕える教会という関係にあります。教会はイエス・キリストに仕えることによって、すでに天のものたちなのです。天のかしらが地上で仕えるわたしたちを、支え生かしてくださいます。 (エペソ5:23a、26〜27)
(2)主イエス・キリストに苦難が満ちているために、この地上にあっては終りの日まで、教会にも苦難と栄光が満ちなければならないのです。しかし残念ながらそれが足りません。キリストご自身の苦難が足りないのではありません。教会にキリストの苦難が不足し、かしらなるキリストに仕えることが不足しているのです。 (コロサイ1:24、ヘブル12:3〜4)
(3)教会の持っている経験は、個人の持つ経験以上です。一時代の経験だけではなく、一地域の経験だけでもなく、あらゆる時代とあらゆる地域と民族によって経験され、その信仰の一致によって真理が確かめられているのです。 (黙7:9、13〜17)
(4)一個人の体験者として持っていないものも、教会にはあります。それを信仰において自分の経験とすること、自分の属する教会の経験を、自分の経験として尊(たっと)んでいく、そのことが大切なことです。 (Iコリント12:13〜26)
問73 信徒がそのために訓練を受けるという聖書からの根拠は、どこにあるのですか。
主イエス・キリストが教会に委託されていることからです。説教と聖礼典だけでなく、その罪との戦いのために信徒を訓練することも委託しておられるからです。 (マタイ28:20)
問74 教会員としての成長と祝福のための訓練を受ける恵みについて語ってください。
(1)隣人(となりびと)と兄弟姉妹の徳と益を高めることができます。強い人が弱い人を支え、また弱い人が強い人を支え、喜んで仕えることができるようになります。 (ローマ15:1〜6)
(2)教会がキリストの徳の高さに至るためには、兄弟姉妹の賜物を共有することが必要です。これが教会の兄弟姉妹の交わりです。そのためにも訓練が必要です。 (ローマ12:4〜21、Iコリント12:29〜13:6)
(3)教会が福音を伝えていく上で一致し、説教を正しく語り、正しく聞くためにも、そして聖礼典を祝福をもって受けるにも、恵みの訓練が必要です。 (ローマ16:17、ガラテヤ6:6)
(4)聖書とその教えを正しく学び、分裂を内に含んだ偽りの一致を退け、神の真理のための主にある一致を守るためにも、訓練が必要です。 (Uテモテ4:3〜5)
(5)わたしたちはこの地上にあっては、罪の弱さとそこからくる歪(ゆが)みをもっています。ですから絶えず矯正(きようせい)し、過ちを是正(ぜせい)することに心がけなければなりません。罪との戦いのために訓練が必要です。 (マタイ18:15〜20、ガラテヤ6:1)
(6)自分に敵意と批判を持つ人に対して、まず自分がまことの神、主の前に心を開いて悔い改めてその人のために祈るには、訓練が必要です。 (コロサイ3:12〜14)
(7)高慢な者や怠惰な者、気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者や強い者を助けるためにも、訓練が必要です。 (Iテサロニケ5:14)
(8)罪悪を指摘しないという偽りの優しさは、主に仕える真実の愛に不足しています。真実の愛がないと、真の矯正(きょうせい)はできないのです。わたしたちは世的に賢くふるまうことよりも、真実の愛と善意を貫(つらぬ)くことで方向性を見失わないですむのです。 (Uコリント7:8〜11)
問75 この訓練の場は、どこでされることがふさわしいのですか。
みことばが語られる、主の教会が、最も有効な場です。 (Iコリント14:24〜25、エペソ1:22)
問 76 教会の戒規とは何ですか。
戒規とは、主のみことばに反した者を正しく戒め、矯正(きょうせい)するためになされる教会の罰則です。正義と公正の神は、罪を犯した者を愛をもって信仰に連れもどすことを命じておられます。 (マタイ18:15〜20、エゼキエル18:21〜32)
問77 信仰に導かれ、救われた者が、罪をくり返すことがあるのですか。
残念ながらあります。邪悪と偽りの霊に負けるのです。キリストがわたしのすべてとなってくださっていることがわかるまで、教会の愛の祝福と戒規の執行は必要不可欠です。 (Tテサロニケ5:22〜24)
問 78 まことの神、主は、正しい神でもあるのですね。
そうです。愛とゆるしの神は、同時に真実と公正と聖なる神でもあります。 (Tコリント5:11〜13、黙3:19)
問 79 戒規を受けた者の悔い改めにふさわしい生き方とはどのようなものですか。
主のゆるしがあるのですから、教会を離れず、教会の中で真実に悔い改めと信仰の歩みを謙遜に続けることです。また万一教会を除名された者も、真実の悔い改めをもって主に立ち帰ることです。 (マタイ3:8)
問80 信仰生活で大切なことをまとめてください。
神のことばである聖書を読むこと、祈ること、そして主をさんびし、礼拝することです。そして自分がその一つの肢(えだ)である教会を重んじ、日毎の生活を通して神の栄光をあらわし、人には祝福を祈ることです。主によって、きよい生活、正しい生活へと変えていただくことができます。 (Tテサロニケ4:3〜8、5:15〜24)
問81 特に日本の国で生きるキリスト者として大切なことは何ですか。
日本の国とその救いのために心から祈る必要があります。そして偶像礼拝、また祖先崇拝、霊(れい)信仰、まじないや占いなどのために祈る必要があります。また異教のカミの呼び名である天皇を国の制度として持つことは、この国の政治と宗教と人々の心に深い影響を与えています。そのためにまことの神、主のご支配を信じるキリスト者の宣教ととりなしが必要です。 (マタイ6:24、ローマ9:2〜3、10:1)
問82 他宗教に対してどう接したらよいですか。
唯一の神、主に従うことを第一にすべきです。その上でたとえば家族の中でただ1人クリスチャンになった場合など、いろいろな信仰上のたたかいがあります。仏壇や戒名(かいみょう)、位牌(いはい)のこともあります。これらは日本のキリスト教徒迫害と檀家(だんか)制度などと関連があります。可能な限りお寺へお返しして、新しい信仰生活をはじめるべきですが、すぐにすべてのことが進まない場合は、祈りつつその時を待ちます。まことの神以外のものを拝むことができないことが、真の人間性を与えます。個人の事情のちがいを考慮することもあります。福音を聞かずに亡くなった者は、まことの神、主がおぼえていてくださいますから、わたしたち自身は主を信じて、精一杯励ましていただくことです。 (ルカ16:27〜31)
問83 訓練をもって備えることが終りの日を待ち望むことであるならば、わたしの未完成ぶりは、あまりにもはなはだしいのではありませんか。
確かに、わたしの信仰は主の前に差し出すにもふつつかなものです。しかしたとえ、わたしは罪深く力弱い者であったとしても、わたしの中に生きて恵みによって育てられるキリストのかたちは希望なのです。ついに、わたしの中のキリストは完全ないのちとなって、わたしたちを新しく装い、み国を完成してくださいます。 (コロサイ1:27、3:3〜4)
問84 主にある恵みの生涯をもう一度まとめてください。
主にある愛の共同体、すべての人に開かれた福音の力、一致して戦う罪との戦い、わたしたちは愛に生き、愛に生かされ、信仰共同体として生活を共にします。信仰を仕事や生活にそのまま生かすことです。 (エペソ4:16)
\ 終りの時
問85 この世とこの世界はいつまでも続きますか。
いいえ、続きません。わたしたちの主イエス・キリストの再臨とともに、この世は終ります。 (マタイ24:35〜37、Iヨハネ2:17)
問86 この世の終りの時、キリストはどのように再臨されますか。
キリストは、天にのぼっていかれた時と同じように、まことの神、まことの人としておいでになられます。 (使徒1:11)
<参考:空中再臨、七年の患難、地上再臨、千年王国>
@千年期前再臨説(患難前、患難後) A千年期後再臨説 B無千年期再臨説
〜@の千年期前(患難前)再臨説が比較的多く受け入れられ、Bの立場も福音的教会の中にあり、Aはあまりない。 (黙20:4〜6、ダニエル7、9章、マタイ24章)
問87 キリストはこの世に再臨されてから、何をなさいますか。
生きている人と死んだ人、この全世界の過去とその時までのすべてを神の権威で裁かれます。 (マタイ25:31〜33)
問88 主にあって救われた者たちにとって、最後の裁きとは何ですか。
まことの神、主のみ前で、あらためてキリストにある無罪を言い渡され、永遠に主と共に生きることが許される、救いの全き完成の時です。 (Uコリント5:1、黙21:7)
問89 この世の裁きとは何ですか。
キリストにある救いを無視した人たちが、主のみ前で、自分のおかした罪のために有罪を言い渡され、永遠に滅びを宣告される厳粛(げんしゅく)な、それこそ最後の裁きのことです。 (ユダ14b〜15、黙21:8)
問90 キリストによってもたらされる、この世の終りの時、この天と地はどうなりますか。
この天と地は、まことの神、主によって、全く新しい天と地にかえられます。すべてが新しくなる永遠の復活の完成です。 (Iコリント15:24、黙21:1〜2)
問91 それでは主イエス・キリストが再びおいでになることは、わたしたちにとって大きな慰めであり、希望なのですね。
そうです。わたしたちは、主イエス・キリストの約束を豊かに受けるために、希望をもってこの大いなる日を期待します。わたしたちはこの世界を捨てて永久に去ってしまうのではなく、新しい天と新しい地に造り変えられる世界にまた来るのです。そうであればこそ、この場所も、ここに生きている時も大事なのです。この場所は主がおいでになる場所、その時を待つ場所なのですから。 (Iテサロニケ4:14〜17、3:13、ヘブル10:37〜39、Uペテロ3:13、ピリピ3:20)
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問92 これらすべてのことを通して、人のいちばん幸せなことは何ですか。
それは、神からの救い、主イエス・キリストを知り、キリストを救い主として信じ受け入れることです。そしてキリストを通して与えられる罪のゆるしと救いのうちに、永遠の世界を仰ぎ見つつ、この地上での生涯をまことの神、主のすばらしさをあらわし、主をほめたたえながら、それこそ生涯歩みつづけることです。 (ローマ8:37〜39) (→問1〜2参照)