聖書のことばと祈りへ


<参考> ==チョット聞けない 男 女 の お・は・な・し==  水谷 潔

ルールを守って幸せに  

      (
「百万人の福音」・いのちのことば社・06年6月号より、引用 )

欲求の満たし方にもルールが?

人間の三大欲求は食欲、睡眠欲そして性欲。
 自分のお弁当を食べれば、おいしくて元気回復。しかし、隣りの人の弁当を食べたら・・・・殴られるかも。間違った方法で食欲を満たす時、幸せが災いに変わる。
 睡眠欲も同様。昼間活動して、夜にぐっすり眠って健康回復、そして朝はさわやかな目覚め。それは小さなようでも大きな幸せ。しかし、授業中に眠れば成績を落とし、職場で眠れば信頼を落とし、礼拝で眠れば恵みを落とす。これまた間違った方法で睡眠欲を満たすなら、幸せは不幸に転ずる。
 すべての欲求には幸せを呼ぶ満たし方と災いを呼ぶ満たし方がある。それは当然の理屈。性欲も例外ではない。聖書は性欲の満たし方について次のようなルールを記している。

「それゆえ男(人)はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(旧約聖書・創世記2章24節)


自立、結婚それから性

ここには「父母を離れ」「妻と結び合い」「ふたりは一体となる」という三つのステップが書かれている。
 まず、「父母を離れ」とは両親からの自立のこと。つまり、結婚とは両親からの自立、親離れが大前提。「お前も結婚して家庭を持って一人前になれよ」などと言うが、これはどうかと思う。半人前どうしが結婚して一人前になるのではない。親離れした一人前の者どうしが結婚をするのだ。「お前ももう一人前なのだからそろそろ結婚したらどうだ」というのが正解なのでは?
 次に「結び合い」ということばは生活を共にすることを意味するそうだ。ある牧師は「結婚とは結婚生活のことである」と語った。単純明快に真理を表現していると思う。結婚とは現実の共同生活だ。
 最後の「一体となる」とは文字どおり、二人の体が「ひとつの体」となること、すなわち性行為を意味している。しかし、この「体」ということばは「肉体」ではなく、心も体も含めた全身を意味することばで、「一体となる」は「一心同体となる」とも訳せることばだそうだ。体だけでなく、心も一つにすることが性生活なのである。

自立した男女(父母を離れ)が、結婚生活をする(結び合い)中で、性の営み(一体となる)を持つ。これこそが、神さまが定めた幸せを呼ぶ性のルールと言えそうだ。
 自立不足のままスタートさせた結婚が破綻し、結婚をしない男女の性関係が不幸をもたらすのは、私たちもよく見聞きしているはず。そう考えると「自立→結婚→性」というルールは、幸せな性に生きるためのかなり現実的なルールではないだろうか。


神さまは意地悪でもけちでもない

「自立して結婚してからなんてどうして?」「結婚前だって愛し合っていればいいじゃない?」「結婚前の性がルール違反なんて、クリスチャンは損、不自由!」そんな本音が聞こえてきそうだ。しかし、神さまが性という祝福を結婚関係だけにとどめられたこと、それは決して意地悪でも、自由の制限でもない。(すべてを)惜しまずに与えられた神さまが、どうして意味もなく私たちに性の喜びを与えることを惜しむだろうか? また、聖書が示す神さまは・・・奴隷であった・・民を解放された方である。自由解放の神が、わざわざ私たちを不自由にするために「姦淫してはならない。(不倫やレイプ、セクハラはいけません。)」と結婚外の性関係を禁止するはずがない。そうだ、聖書が示す神さまは、どう考えても意地悪でもけちでもない。それどころか私たちに何一つ惜しまない自由解放の神さまだ。だとすれば、神さまが性を結婚の中に制限しておられるのには、きっと何か深い意図があるに違いない。

最高のエッチは?

あるクリスチャン青年が友人を教会に誘った。遊び人であるその友人は、こう答えたそうだ。「オレ、クリスチャンにはなりたくないんだ。だってクリスチャンになったら、いろんな女の子とエッチできないんだろう。そんなの嫌だもん」。
 ずいぶん自分に正直な人だと思う。しかし、彼は根本的な考え違いをしている。「できるだけ多くの女性との性関係(いろんな女の子との性関係)=豊かな性生活」と信じているからだ。
 もし彼に会って話す機会があれば、私はこう言いたい。「最高のエッチをしたければ、ぜひ教会に来なさい。そして、まず君がクリスチャンになることだ。次にクリスチャンの女性と結婚し、生涯、妻一人とだけ性を楽しみなさい。一心同体となって神さまに仕えなさい。それが最高のエッチだよ」

できるだけ多くの異性との性関係、それは最も充実しているように見えながら、最も貧しい性のあり方ではないのか? どこまで行っても最終的な喜びに行き着けないのだから。一人の異性を愛し通せないのなら、むしろ、それは性の世界では劣等生ではないだろうか?


あるクリスチャン女性の体験

一人のクリスチャン女性がこっそりと小声で、私に姉夫婦の結婚について話してくださったことがある。

「私は独身なのですが、最近私の姉が結婚しました。姉は結婚生活を始めるときには、性生活についてはマイナスイメージばかりを持っていたようです。姉はクリスチャンで結婚相手もクリスチャンなのですが、結婚した後、姉が私に教えてくれました。『私は結婚前には性生活についてあまりよいイメージを持っていなかった。でも結婚して初めて知ったのよ。夫婦の性生活がどんなに大きな神さまの恵みであるかを。結婚前には、心にも体にもこんなにも深く大きな喜びがあるなんて思いもしなかった。これから結婚するあなたにこのことを伝えておきたかったのよ』。私は姉からこの話を聞いて感動しました。そして結婚生活により一層、期待できるようになりました」

もちろん、すべてのクリスチャン夫婦がすぐにそのような喜びを体験できるとは限らない。そこに到達するまでには、努力や成熟が必要な場合も多いだろう。しかし、クリスチャン夫婦が一心同体となり神さまに仕える性生活の中には、肉体上の感覚を超えた深い喜びが待っているのだ。

ルールの背後には愛

まず、はじめに神さまが人を造られた。人間にはそれぞれ神さまからの使命が与えられている。神さまはその使命を一人でなく、パートナーと共に果たすようにと結婚を定められた。そして、夫婦が一心同体となり、パートナーとしての絆を強めるためのもの、それが性である。つまり、神のための使命、使命のための結婚、そして結婚のための性なのだ。神さまはそのような性の中にこそ、深い喜びを備えておられるのではないだろうか?  (注:聖書は別の箇所で、独身で生きる人のことについても語っている)

一方、結婚前、(あるいは)結婚外の性がもたらすものは何だろう? すべて与えつくした上での別れとその傷の痛み、一人の人を愛し通せない惨めさ、性感染症、予想外の妊娠、不本意な進路変更、最悪の結果としての中絶とその後遺症や罪悪感など、様々な災いと不幸がそこに伴うことは皆さんもご存じのとおり。
 一見、不自由のように思えるこのルールの背後にあるもの、それは私たちに最高の性の喜びを与え、同時に性の世界での痛ましい不幸から守ろうとされる神さまの深い愛ではないだろうか? そう、神さまは意地悪でもけちでもない、私たちに最高のものを与えようと願われる愛なる方。

「それゆえ男(人)はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」
字面ではない、その背後にある神さまの熱愛を受け止めたい。


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