日本人よ、聞け!
人間を、日本人を解放するのは、慰霊ではない、鎮魂ではない!
冥福でも、供養でもない。
E 死者(の霊)は怨まない、崇らない
<誤まった霊信仰からの解放>
〜デタラメな人間観を追い出す〜
聖書のイエスの物語の中にしばしば「悪霊を追い出した」というできごとが出てくる。
たとえば(新約聖書・ルカの福音書8章29〜30節)
”8:29 それは、イエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからである。汚れた霊が何回となくこの人を捕らえたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていたのである。
8:30 イエスが、「何という名か」とお尋ねになると、「レギオン(大ぜい)です」と答えた。悪霊が大ぜい彼に入っていたからである。”
それ以前にもこう出てくる。
”4:33 また、会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいた。
4:34 「ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
4:35 イエスは彼をしかって、「黙れ。その人から出て行け」と言われた。するとその悪霊は人々の真ん中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。” (ルカの福音書4章33〜35節)
”4:41 また、悪霊どもも、「あなたこそ神の子です」と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである。” (ルカの福音書4章41節)
”6:18 イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。” (ルカの福音書6章18節)
イエスは「悪」を追い出す。そしてさらに「悪霊」というか「汚れた霊」、必要以上に「悪い霊」がこの世で働くことをおゆるしにならない、そうしたことが強く示されているのです。そしてそれを人々の中から追い出された、と。
〜それから上記の(ルカの8章)、これが大ぜいだったという所から、いろんなものが入り込んで、もうバラバラになってしまっているような状態、そんな姿を表している、と言う人もいます。
私たちはどうでしょうか。いろんなものが入り込んで、まとめることができない、何か心も体もバラバラになっていて、自分でも何を考えているのか、何がしたいのか、まとまらないでいる、そんな風になってはいないでしょうか。
イエスは、そうしたものを私たちの中から追い出されて、少しそれをたばねて、まとめて、そして私たちを落ち着かせてくださる、そうした働きをしてくださるのです。
〜私たちはあまり「悪霊」にこだわらない方がよい。イエスの時代には、必死になって「神の子」に反抗した姿が描かれているからといって、すでにそれに勝利された十字架の出来事が終った以上、むしろ悪霊を恐れるというよりも、必要以上に「霊」にこだわったり、そういう意味で霊に取りつかれたりしないように気をつけた方がよいのです。
〜ここから確認をしたいことがあります。
(1)死者の霊は崇らない。 そのことです。
実は日本では、霊を恐れる、霊が崇る、あるいは死んだ死者が怨んでくる、そうした霊信仰というか、考えが、非常に強いのです。
死ということ自体を不吉で尋常でないこと、何か恐ろしいことこわいこと、と考える信仰が大部分なのです。
たしかに死は尋常ではありません。しかし死が最大の力あるものであって、その死の前には何もできない、ものでもありません。
で、たくさんの霊が今でも多くの人を苦しめています。
ですから日本では、「慰霊」ということを第1にするのです。霊を慰める。そうしないと何か悪いことが起こる、恨みを持って出て来る、自然とそう信じているのです。
ですからどこへ行っても「慰霊」をします。また成仏しますように、崇るようなことがありませんように、と言って「供養」をします、「鎮魂」をします。そしてそれがまた人々の生活や考えを縛っています。
〜そもそも先祖の霊が崇るのでしょうか。死んだ人の霊が怨むのでしょうか。
いいえ、先祖の霊は崇りません。迷ってもいません。
祖先であれ、先祖であれ、私たちが幸せであり、おだやかに生活することを心から願っているのであって、それが一番の希望であり、願いでもあります。
むしろ先祖たちは、何とかして私たちを幸せにしよう、祝福しようとしているのであって、どうして、子孫をのろったり、怨んだりする必要があるでしょうか。
〜時に言われるのが、非業の死を遂げたそうした霊が、恨みを持ったりするのではないか、ということです。でもそんなことはありません。これも迷信です。
自分の責任で非業の死を遂げた者があったとしても、だからと言って、子孫を怨むようなことはしません。仮に自分は願わなかったような所に行ったとしても、であればせめて自分以外の者は、何としてもそうした所には来ないように、必死になってそのことを考えているのであって、何とか子孫は祝福されるようにと願っていて、決して怨んだり、子孫も同じようになれと言っているのでありません。
また自分のせいではなくて、不幸な死を迎えた者があったとしても、そうであります。その霊は、だから人を怨んだり、妬んだりしているのではなく、2度と理不尽なことがないように、つらいことがないように、子孫の平和と安全を願っているのであって、決して怨んだり崇ろうとしているのではありません。
霊がかわいそうだから、怨むから、慰めなければ、と言って、あちらでもこちらでも慰霊祭をやり、あちらにもこちらにも慰霊碑や鎮魂碑を建て、せめて供養しなければ気の毒だ、と言って御清めをしたり、供養したり、それはすべてそのような霊信仰に惑わされて解放されていない姿です。迷信であります。
祖先の霊は、怨んだり、崇ったりしません。
むしろ必要なのは、生きている時にこそ、共に生き、大切にし、愛し合い、助け合う、といったことであって、それらをないがしろにしたまま、死人に口なしで、死んだ後になってから、一生懸命一方的にやれ供養だ、慰霊だ、そうでもしないとしかられる、怨まれたら大変だ、いやうっかりしたら崇られる、ではないのです。
それは生きている時にきちんと神の道や真実の道を歩むことをしないで過ごし、「死」の時になってあわてて、せめてそうでもしなければ「地獄」にでも行ったら大変だ、とあわてふためいている、哀れな人間の姿です。
お経の1つも読んだこともないのに、金で「仏門に帰依したことを表す」戒名を買い、何回忌だ何回忌だ、とそれこそ一人の人に死後50年も付き合わされ、せめて、と祈る。そして自分もろくな信心もしないままに、死んだら供養してくれと、虫のいいことを言う。
バカを言うな。
またそれを真の仏教でも神道でもないままに、せめてもの宗教だけで、葬式と一緒に初七日ですとやったりしているお寺どもは、人間をバカにしているのかとさえ言いたい。
本当の人間とは何か。生とは何か、死とは何か。正しい人間観を教えないまま、デタラメな人間観をバラまいている。
そんな「悪霊」を、イエスは追い出そうとされたのです。
まことの神を信じ、神を愛し、神のみこころの中を生きること、そして家族も大切にし、何とかしてお互いの幸いを願いながら生きる、そのことを聖書は示し与えようとしているのです。
(2)先の(ルカの福音書)の所でも、「霊に取りつかれた人」とか「もうたくさんの霊が入っていた」とか、あるいは「汚れた霊」とも言われていました。
もうそれに取りつかれたようにとか、いろんなものが入ってもうバラバラになっているとか、それはいろんな人が考え出した勝手な、そういう意味では、もう汚れた霊といった状態に、多くの人がなっているのではないでしょうか。
〜それらをきちんとたばねて、まとめて、そして正気に返って、救われる必要があります。
冥福を祈るのではなくして、本当に神様の守りと祝福があるように。
霊を慰めたり、鎮めたりするのではなくして、すなわち慰霊とか鎮魂とかではなくして、祖先の、あるいは亡くなった方の霊は、私たちを決して怨んだり、崇ったりするものではないことを、私たちは確信し、確認し、また人々にそのことをしっかりと伝えていかなくてはなりません。
死者の霊は、怨みません、崇りません。 悪魔の働きは退けなければなりません。
イエスは、悪を追い出し、そして間違った霊(や死生観)を追い出すことをされたのです。その生涯で、しばしば。
(3)さらに(ルカの福音書16章19節〜)を見てみましょう。
”16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、
16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
16:30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
16:31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」” (ルカの福音書16章19〜31節)
(27〜28節には) 16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
どうか、家族を祝福してください。
苦しい目に会う。だからのろうとか、怨むとか、祟る、ということではなくして、そういうつらい目に会っている人こそ、あとの者たちには、せめてこんな所に来ないように、切に祈って、ただただ自分のことではなく、みんなが救われるように、ひたすら願っている、その様子が描かれています。
〜私たちはそのことをしっかりと心に留め、間違った霊信仰に取りつかれたまま、お盆だ、お祭り(霊を慰める)だ、ではなく、本当に救われる、そのことをまことの神からしっかりといただいて、感謝をしながら、生きるにしても死ぬるにしても神の栄光(すばらしさ)が現わされる歩みを築いていきたいのです。
そして周りの人々に対しても、正しい信仰を、霊信仰というよりも、まことの神信仰、に生きる大切さ、すばらしさを伝えていきたいのです。
その時、たとえ死んでも天国へ行けるのです。
〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜