<主のみからだなる公教会として、主に仕える>

キリスト教信仰における、「教会」があることのすばらし

〜クリスチャンになった皆さん。 おめでとうございます。 まことの神を信じる信仰生活の祝福が豊かにありますように!!

〜主イエス・キリストは、神を信じること、神の国の一員として生きることのすばらしさの中で、次のことも言われました。

”16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」”
                                     (新約聖書・マタイの福音書16章15〜19節)

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「わたしの教会を建てます」 イエス・キリストのことばです。
「この岩」というのは、ペテロ(岩)という名にもかけて「あなたは、生ける神の御子キリストです」とペテロが告白したそのことばを指しています。
「あなたは、生ける神の御子キリストです」の信仰の上に、「わたしは、わたしの教会を建てます」とキリストが言われたのです。 使徒的なこの信仰告白の上に、1つなる公的なキリストの教会があるのです。

教会とは何か。
キリストがこの使徒的な信仰告白の上に建てられた、いわば1つなる「キリストの」教会。決して誰かが個人的に建てたものではなく、そういう意味では私的な、勝手な教会ではなく、ある程度公認された公的な、という部分があります。
その意味では、教会としての権威を認められてきた教会の信仰を受け継ぎ、制度や牧師職といったことにおいても一定の基準を持ち、聖書の権威に従い、お互いの交流においてもそれが認められるあり方といったことは大切なことなのです。

極端に言えば、誰でも勝手に「宗教」を始めることはできるのです。ある日誰かが「私が牧師です。」「ここが教会です。」と言って看板を出すこともできてしまうのです。
そこから新興宗教もカルトも、自称教会もできてしまうのです。しかし聖書とは似ても似つかなかったり、キリスト教会でも何でもないものが、そう名乗ることもできてしまうのです。

ですから、そう名乗っているからではなく、私たちは聖書から正しく「教会とは何か」を学んでおかなければなりません。

上記の聖書のことばが言っていることからも以下のことが言えます。
@イエスこそ神の御子キリストです、イエスこそ救い主、主です、の信仰があること。
A「わたしの教会を」とキリストが言われたのですから、誰かのではなく、謙虚に「あくまでもキリストが建てられたキリストの教会です。聖書とキリストの教えには忠実に従います。」という態度がはっきりとしていること。
Bある程度、伝統的な教団・教会から公認された制度や教職制を持つこと。(その点で時々「単立」とか「独立」をかかげる教会がありますが、要注意です。なぜなら「単立」や「独立」の中には「勝手な」「自己流の」あるいは「自称」が入り込む余地がたくさんあるからです。)
C「天の御国のかぎ」の権能を授かっていることを意識し、それを謙遜と祈りの中にも行使していること。「天国の鍵の権能」とも言われますが、それをおごそかにも与えられていることを自覚していることが大切です。その中に(1)みことばを正しく語り、宣告し、人々を神の国へと導き教える権能、(2)信仰生活を守り、指導し、教会を正しく治める教会統治的な権能、(3)信仰から迷い出た者をとりなし、時には戒め、正しく導く「戒規」執行の権能、などがあります。

それによって私たちは守られ、神と共に生き、またまことの神、主の栄光(すばらしさ)を現わすことができるのです。

信仰生活は決して、単に「私的な」心の持ちようだけではなく、他者と共に生き、個と全体を学び、神に仕える、人としての大切な生き方なのです。
そして、責任といったことや、(神に)応答していくといったことを教えられる祝福の道なのです。

〜キリスト教信仰に「教会」があることのすばらしさを、ぜひ知って、「キリストのからだなる公教会として、主に仕える」栄光も味わっていただきたいのです。

そのためにも、その公教会の枝である各個の教会につながり、その一員としても生きる幸いを身につけてほしいのです。(何か教会を渡り歩くようなことにはならないように、ぜひ自分の行く教会を決めていただき、そこで信仰生活のすばらしさを現わしてほしいのです。)

教会とは「誰」ですか、という問いもあります。 あなたが教会です。 しかし1つなる「キリストの」公教会を意識してくださって、そこを「教会」として育ててもいただきたいのです。

”教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。”   (新約聖書・エペソ人への手紙1章23節)

〜私たちは、教会によって養われ、育てられていきます。そんなところから、教会を「信仰の母」と呼ぶ方もいます。

一人ではできないものが2つある。結婚すること、とクリスチャンになること。」と言った方がいます。この意味がわかるでしょうか。結婚することはともかく、クリスチャンには一人でだってなれるような気がします。しかし他者との交わり、謙遜と愛、全体の中の一部、しかしかけがえのない存在、そうしたことを現わす「教会」に対する信仰がないと、クリスチャンにはなれない、これにも真理があるのです。

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<キリスト教のいう救いとは>の中で次のように記しました。

○一人ではなく共に生きることを教える有機的な信仰共同体論、それを「キリストのからだなる教会を信じる」という。

 〜キリスト教のいう「救い」の中に、もう1つ大切な点がある。
  それは「教会を信じる」という信仰の中身だ。

  普通「神を信じる。キリストを信じる。人間が罪ある者であることを信じる。救いがあることを信じる。愛を信じる。天国を信じる。」などというのが、信仰の中身だ。

  けれどもキリスト教では、それらに加えて信仰の中身に「教会を信じる」ということが言われる。教会そのものが、信仰の中身なのだ。

  普通「教会」と言えば、信仰を持った人の集まる場所、礼拝堂や、信仰を持った人たちの団体のことだ。信仰の中身というより、信仰がもたらす結果としての外形のことだ。

“また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。”(新約聖書・エペソ人への手紙1章22〜23節)

“あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。”(新約聖書・コリント人への手紙第一 12章27節)

かしらがキリストであり、ひとりひとりはそのからだの各器官であり、全体としてキリストのからだと呼ばれる。そうしたことを信じる、というのだ。

私だけではなく、そうした有機的な信仰共同体を信じる。それは民族を超え、人種を超え、実はキリストがひとりであられるように、全世界でひとつである教会を信じる、という信仰なのだ。

だから実はキリスト教にとって、「教会」という信仰は、まことの神を信じる、神の自己犠牲(それがキリストの出来事)を信じる、神からの救いを信じる、といったことと並んで、中心的なことなのだ。

教会を信じないキリスト教信仰はないと言えるほど、大切なものなのです。

しっかりと「教会」を語り、「教会」の名をかかげ、「教会」を信じ、「教会」を誇りとする、世界大のキリスト教会を信じることが、神の啓示である聖書の中に表されている。


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 〜ぜひ「教会」があることのすばらしさを現わしてください。「教会」を信じることのすばらしさを現わしてください。「教会」の大切な一員として生きてください。そのことも含めて「クリスチャン」として導かれたすばらしさを現わしてください。

主よりの豊かな祝福をお祈りいたします。






  (クリスチャンが出会う患難に関連して、次のような聖書のことばと小さなメッセージもあります。 
 スポルジョン師の「朝ごとに」より)


◆あなたがたは、世にあっては患難があります。(新約聖書・ヨハネの福音書16章33節)

信者よ。あなたはその理由を質問したいのか。(上を)仰いであなたの天の父を見、その純潔と神聖を見よ。あなたは自分がいつかそのようになるのを知っているか。あなたは容易に主のみかたちに似るものとされるだろうか。あなたは、きよめられるため、患難の炉の中で十分に鍛えられる必要はないか。あなたの汚れを除き、あなたの天の父が完全であられるように完全なものとされるのは、容易なことだろうか。

次に、主にある友よ。目を下に向けよ。足の下にどのような敵がいるかを知っているか。あなたはかつてサタンのしもべであった。どのような王であろうと、自分の臣下を喜んで手放すことはない。サタンがあなたを見逃すと思うか。否、彼は常にあなたをねらっている。サタンは「ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」と記されているではないか。だから、主にある友よ。下に目を向ける時は困難を予期せよ。

また周囲を見回せ。あなたはどこにいるのか。あなたは敵国にあり、旅人であり寄留者である。世はあなたの友ではない。もし世があなたの友ならば、あなたは神の友ではない。なぜなら、世の友は神の敵だからである。至る所で敵に会う覚悟をせよ。眠る時にも戦場にいることを忘れるな。歩く時の生け垣の後ろに伏兵がいることを覚えよ。心せよ。蚊は土地の人よりも旅人のほうをよく刺すと言われるが、そのようにこの地上の試練は、あなたにとってさらに激しいだろう。

最後に、あなた自身の内を見、心の中を調べよ。罪と自我がなおあるのではないか。ああ、たとえあなたを誘惑する悪魔がなく、あなたの戦うべき敵も、陥れる世もないとしても、なおあなたを悩ます罪悪を見いだすであろう。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と記されているとおりである。

それゆえ、困難を予期せよ。しかし、気落ちしてはならない。神は共にいて、あなたを助け、力づけてくださる。「わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう」(旧約聖書・詩篇91篇15節)と言われるのである。









<使徒信条> <教団の信仰告白>

私たちの教会は、まことの神、主のことばである旧新約聖書に基づき、教会の歴史の中で受け継がれてきた基本的な信条である<使徒信条>、及び私たちが所属をする<日本同盟基督教団の信仰告白>に準じて、その歩みと働きを推し進めます。


         < 使 徒 信 条 >
 
 わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。
 わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして全能の父である神の右の座につかれました。そこから来られて、生きている者と死んでしまった者とをさばかれます。
 わたしは聖霊を信じます。きよい公同の教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。アーメン。


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        日本同盟基督教 教憲〈前文、第1条〉)

前 文

日本同盟基督教団の歴史は、15名の宣教師が横浜に上陸した1891年11月22日に始まる。彼らを派遣したのは、フレデリック・フランソンが設立した北米スカンヂナビアン・アライアンス・ミッションであった。
 宣教師と牧師、信徒の協力によって生み出された諸教会は、1922年10月に日本同盟基督協会を組織し、宣教に情熱を注いだ。戦時体制下、宗教団体法施行にともない1941年に日本基督教団第八部に所属したが、戦後同教団を離脱し1948年10月に日本同盟基督教団として新たに出発し今日に至っている。
  本教団の存立の目的は「聖書信仰、宣教協力、合議制」における一致のもと、聖霊の力によりキリストの宣教命令に応えて、神の栄光を現すことにある。この目的のために、本教団は、犠牲を惜しまず、積極的な開拓伝道と堅実な教会形成による国内宣教および「日本とアジアと世界」を視野に入れた国外宣教を推進して、地の果てまで福音を宣べ伝える。また、過去の戦争協力と偶像礼拝の罪を悔い改め、世の終わりまでキリストへの信仰を堅持する。

第 1 条 本教団は、聖書の啓示するイエス・キリストを主とする公同教会の一員であり、聖書信仰に立って次の信仰を告白する。

「我らは、聖書において啓示され、使徒信条をはじめとする公同の信条が言い表し、宗教改革において鮮明にされた信仰にもとづいて、次のように信じ、告白する。 

1.旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、神の救いのご計画の全体を啓示し、救い主イエス・キリストを顕し、救いの道を教える信仰と生活の唯一絶対の規範である。

2.神は霊であり、唯一全能の主である。神は永遠に父と子と聖霊の三位一体であって、その本質において同一であり、力と栄光とを等しくする。

3.神は、永遠の御旨により万物を創造し、造られたものを摂理によって統べ治める絶対主権者である。

4.はじめに人は、神のかたちに創造され、神と正しい関係にあった。しかしサタンに誘惑され、神のいましめに背いて罪を犯し、神のかたちを毀損(きそん)した。それゆえ、すべての人は生まれながら罪と悲惨、死の支配のもとにあり、思いと言葉と行為とにおいて罪ある者である。自分の努力によっては神に立ち返ることができず、永遠の滅びに至る。

5.主イエス・キリストは、父なる神のひとり子であって、聖霊によって宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれたまことの神にしてまことの人である。主は我らに代わって十字架にかかり、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死者の中からよみがえり、我らのために贖い(あがない)を成し遂げ、我らに永遠のいのちを与えた。主は天に昇り、父なる神の右の座に着き、大祭司として今も我らのために執り成している。

6.聖霊は、我らに父と子を示し、罪を認めさせ、赦しを与え、我らを新たに生まれさせ、神の子とする。人は、自分の行いによらず神の恵みにより、主イエス・キリストの贖いのゆえに、キリストを信じるただその信仰によって義と認められる。さらに、聖霊は、助け主、慰め主として我らの中に住み、我らを主と同じかたちに造りかえ、我らに御旨を行わせ、世の終りまで我らとともにあり、我らをキリストとの共同相続人とする。

7.教会は、聖霊によって召し出された神の民、主イエス・キリストをかしらとするからだであり、羊飼いなる主の御声にのみ聴き従う羊の群れである。地上の教会は、再び来られる主を待ち望みつつ礼拝し、みことばを説教し、聖礼典を執行し、戒規を重んじ、聖霊の力によって全世界に福音を宣べ伝える。

8.終わりの時に、主イエス・キリストはみからだをもって再臨し、生ける者と死せる者とを審判する。主は我らをからだをもってよみがえらせ、我らをご自身の栄光と同じ姿に造りかえ、万物を新たにし、神の国を完成する。アーメン。」