B 確信と謙遜


<信仰〜その確信と謙遜>


 信仰は、目に見えない世界を語る。そして人間を超えた実在を語る。超越神とか、創造神とか、霊性とか。
信仰は、目に見えない世界を示す。永遠とか、死後の世界を。そして人の内面を示す。
信仰は、人に力を与える。信じる力、信頼する心、愛する力、人をゆるす思い。
信仰は、人にゆるしを与える、救いを与える、人と共に生きる術を示す。
信仰は、生きることを肯定する。不正を憎む思いを与える。罪のゆるしを求めさせる。
信仰は、たましいに休みを与える。信仰は、祈ることを教える。
信仰は、喜ぶことを教える、感謝できる心を与える。
信仰は、人を何かにとらわれることから解放する。

信仰は、<神>を示す。<神>の働きを示す。<神>の謙遜を語る。


世の中に存在する諸宗教

 実に多くの宗教や信仰が存在する。宗教であることを否定する宗教や信仰を含めて。
最近はスピリチュアルとかパワースポットという。しかしこれも宗教。
一般的に宗教というと、日本では仏教とか神道。 お寺とか神社のことだ。
しかし実際にはこれらが混ざり合ったり、変化したりで、実態はあるがよくわからない。
どこのお寺に行っても、どこに神社に行っても、結局は庶民のささやかな祈り、家内安全、無病息災、厄除け、諸願成就。日本的な信仰になってしまっている。

それで何が悪い。「せめて」もの祈りだ。 仏教や神道がそれをどう思っているか知らないが。
意味はよくわからないが、お祭りがあり、通過儀礼があり、鎮魂があり、供養がある。
しかもその時は、結構真剣だ。普段信じてもいない寺に行き、何が祭られているかも知らない神社に行く。

手を合わせるだけでいい。「せめて」もの信仰だ。

占いがある。何かを言ってもらうだけでいい。当たらなくても。自分で考えるより楽でいい。
当たらなくても文句を言わないし、その通りにならなくても構わない。
何かを言ってくれて、何かを感じさせてくれて、少し祈れればそれでいい。

死後の世界は、よくわからない。「せめて」供養をしておけば、自分も供養してもらえるかもしれない。
何もないよりは、少し安心。(気やすめ?)

お仏壇や神棚は、昔<キリシタン>迫害のシンボル?
間違ってもうちは<キリシタン>ではありません。お寺です、神社です。キリシタンが迫害されるのに賛成です。何十万の人々が信仰のゆえに殺されても、私たちは反対しません。ざまあみろです。うちにはそのシンボルの仏壇をちゃんと置いてあります。仏教は「平和な」宗教です。殺生をしません。キリシタンがどんな殺され方をしようが何も言いません。黙って(賛成して)います。
そこに世界に類を見ない、大迫害(大量虐殺)がこの国で行なわれた。

神道は近代において、改めて天皇とつながった。そして国家ともつながった。そして侵略にもつながり、思想弾圧にもつながった。何人の犠牲者が出ようと、その責任は取らなかった。

教会はいつでも弱かった。この国では。

人々はだんだん「信仰」を信じなくなった。「せめて」もの信仰だけが残った。意味は問わない。教えもなくていい。ささやかな願いや祈りにこたえてくれたらそれでいい。骨抜きの信仰。 戦後の新興宗教も同じ。

占いやスピリチュアルだけが、時々はやる。儀礼や祭りだけがはやる。打ち上げ花火や屋台だけが動員される。 最近はイルミネーションもか。
         

<祖先崇拝と神>

 日本では、ほとんどの信仰が「祖先崇拝」になってしまっている。
 見えない神を信じるというより、身近な家族としてのおじいちゃんなり、おばあちゃんが、ホトケ様あるいはカミとなって、ご先祖様として自分たちを守っていてくれる、という信仰だ。

 仏教も純粋な仏教というよりは、多くの場合、お仏壇に先祖の位牌を置いて祖先にお祈りしたり、願い事をしたりの「祖先崇拝」となっている。死者供養と祖先崇拝が合わさっての信仰だ。神棚の場合も、多少「ヤオヨロズノカミ」を意識することはあっても、同じように祖先崇拝の場になっていることがある。
 仏教だ、神道だ、という前に、祖先崇拝が強く働いている。
 それに奇妙な霊信仰と占いが、多くの人々の心を捕えている。新興宗教の場合も「祖先崇拝」を強調する方が受けがよいようである。

 聖書では、<まことの神>以外の霊信仰には気をつけなさいと言う。

 結局、「人を導く」神を意識するより、神なんかいないとする<無神論>に近いものがその中には強くある。自分たちを導く神を認めたり、神の前にどう生きるか、よりも、自分たちの願いがかなえられる、自分たちの思いがかなえられる、自分たち中心の祈りだ。

 そこに自然の恵みに感謝する<自然崇拝>が多少入ってくる。
 自然と親と先祖に感謝する「祖先崇拝」です。そこに少し仏教と神道が乗っかっている。仏様と言ってもブッダのことより、死んだおじいちゃんおばあちゃんたちのことだ。





聖書〜その確信と信仰

 そして、聖書。
教えがあり、ことばがある。それを読めと言う。何千ページもある。そしてカタカナが多い。

聖書は、唯一神を語る。人を語る。人の歴史を語る。人の罪を語る。罪からの救いを語る。永遠を語る。
祈りを語る。信仰を語る。

また愛を語る。正義を語る。神と共に生きることを語る。この神のすばらしさを語る。この神を喜ぶ。

信仰は絶対を語る。人を超えたものを語る。人には惑わされない。時には強い。

聖書は犠牲を語る。あなたのために犠牲があった、と。 
神の犠牲が。 犠牲を忘れるな、と。

だから信仰ほど、謙遜を忘れてはならない。確信ほど、謙遜を語らなくはならない。

謙遜を忘れた信仰は、自分で自分を神とする。それは最大の罪。

その信仰の「確信と謙遜」を忘れずに、神のすばらしさを現わし、人には祝福を祈ろう。