D 勝利の人生

<勝利の人生〜キリスト教のいう救いとは>

(1)開き示しと信頼とでつながる人格の世界

 〜人は生きている。心と身体と精神的な面を持って。肉体的な面と精神的な面と霊的な面とも言う。それらが離れがたく密接につながり合って、人間(人格)を形成している。

  仮に、人間は「心とからだ」を持っていると言うと、その「心」があるために、人はより豊かでもあるし、また複雑でもある。

心はころころ変わるし、極め尽くすことはなかなか難しい。 
  たとえば、夫婦や親しい家族や友人であったとしても、人の心のすべてを極め尽くすといったことは不可能とも言える。

物ならば、かなり極め尽くすこともできるかもしれない。分析して、顕微鏡で覗いたりして。
   けれども生きている人の思いは、解剖しても精神分析しても、なかなか難しい。絶えず動き生きているからだ。

そうした「生きている人格の世界」では、どこかで、相手がまだ十分わかり切ったというわけではないけれども、どちらかが心を開いて自分の思いを「開き示し」、それに心動かされた相手がまた、十分相手をわかり切ったというわけではないけれども、どこかでそれを「信頼して」受けとめる、そうした「開き示し」と「信頼」、「信頼」と「開き示し」、その関係の中で、いわば思いや心が通じ合っていくものなのだ。

分析や解剖ではない、生きた者同士の人格的な関係、それを成り立たせているのが「開き示し」と「信頼」なのだ。


 〜「開き示し」は、「啓示」ともいう。自分の思いを、自分の方からでも開いて示していく、語りかけていく。「自己啓示」と言ってもよい。

聖書の神様は、やはり生きている人格的(神格的?)なお方だ。聖書では「生けるまことの神、主」と言い表す。人とも、生きた人格的な関係の中でつながる。神様は物ではないから、分析して解剖して極め尽くすことは難しい。

神様も、人間を愛していて、語りかけている。神様からの「開き示し=自己啓示」、それを「神様からの啓示」という。聖書は、神様の啓示には、大きく分けて「自然の啓示」と「特別な啓示」とがあるという。

自然の啓示は、“天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。”(旧約聖書・詩篇19篇1節)とあるように、天地万物の存在が、絶対者なる神を啓示している。
しかし宇宙の広がり、また生命の神秘は知り得ても、神の性質のすべては知りえない。そこでさらに「特別の啓示」(開き示し)が与えられる。神の聖なること、神の完全なること、神の愛なること、それを語るのが、聖書であり、キリスト(神の人としての自己啓示)だという。これは一方的な「開き示し」(啓示)でもある。

それをどこかで信頼する。信頼に値すると信じる。「開き示し」と「信頼」、そして「信頼」と「開き示し」、その関係の中で、このまことの神への信頼が生まれるのです。
生きた人格的な関係では、相手の「開き示し」に対する「信頼」(それを神に対しては、信仰とも呼ぶ)、それが生きた関係ともなっていく。

人間が生き生きと生きていくには、生ける神との信頼関係=まことの信頼関係=信仰が、必要なのです。まこと神、主を知ることが知識の初めなのです。


(2)罪からの解放

 〜人間には一つやっかいな問題がある。「罪」の問題だ。ウソをつくし、ねたみや争いがある。聖書は、神との人格的な関係の破れが、そもそも「罪」だし、不安を生み、信頼を損ね、基本的信頼がないことが、さらに悪の虜(とりこ)になる、と言う。

この「罪」からの救いが、大切な救いの要素です。
   やめようと思っても、やめられない。悪いとわかっていても、やめられない。それはもうそのものの虜(とりこ)= 奴隷です。

“私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。”(新約聖書・ローマ人への手紙7章19〜20節)

その罪から、人は解放されることが大切です。
   しかしどうして人は、その罪から救われうるでしょう。
   自分の力によって? そうできるなら、あまり心配はいりません。
   修行や努力によって? ある程度は必要です。しかし積んではこわし、積んではこわし。やはり努力だけで救われるなら、まだ心配はいりません。

おぼれている人間には、それ以上の立場に立つ者からの救助が必要です。
   確実なのは、はるかに力のあるものが、その人の所にまで降りてきて、しっかりと抱きしめ、その人と一体となって(ヘリコプターか何かで)引き上げてくれることです。

人間よりもはるかに力のある方が、私たちの所にまで降りてきて、私たちをしっかりと抱きしめ、その人と一体となって引き上げてくれた。それがキリスト(救い主)という、神の自己啓示だと、聖書は告げる。

その「開き示し」を信じるか否かは、あなた次第だ。
   信じなくても、一応は生きられる。しかし「罪からの解放」はない。
   人は「罪の奴隷」のままでは、本当の意味では生きられない。

罪は罪を生むし、罪はそのままでは人に滅びをもたらす。

キリストの十字架の姿は、人の罪の姿を暴き出している。
   キリストの十字架の姿は、どん底にまで降りて来た、完全な自己犠牲を描き出している。
   キリストの十字架の姿は、そのような(何とかして人を救いたいという)神の愛を表している。

“私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子(=キリスト。神の自己犠牲)を遣わされました。ここに愛があるのです。”(新約聖書・ヨハネの手紙第一 4章10節)

  それに信頼する者に、解放がもたらされる。むしろ自分自身の中に、もう自分を救うだけの力がないことを認め、相手に信頼し、まかせ切るほどまでにまかせ切った時に、その力ある者によって助けられたことを知る。
  信じたことによって、救われたことを知る。

人は神によって助けられ、神によって罪と悪と悪魔から救われ、解き放たれる。
  その後、本当に生まれ変わって生きることができていることを知る。

  “あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。
   あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。
   天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
   この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。
  ・・・・
   私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。” (旧約聖書・詩篇73篇23〜28節)

聖書は、あなたの罪からの、そして滅びからの解放(=救い)を、あなたにもたらすのです。

そして罪が嫌いになり、罪を繰り返さなくなり、そして次第に、神にあるいはキリストに似た者と変えられていくのです。
仮に信仰を与えられた後に何か失敗をしたとしても、神を知る者として、すぐに悔い改め、それを繰り返さなくなります。心からのおわびができるようになります。この神からの救いの力は大きく、力強いものです。

 〜○救いの条件と結果
救われるためには、人の努力やよい働きは効果がありません。自分では自分を救い得ない人の現実の背後から、神の一方的な力が働きます。信仰による、神の恵みのわざとしての救いです。
しかし救われた結果、私たちは喜んでよい働きができるようになります。愛の人に、祈りの人に変えられます。救いの結果は、新しく生まれ変わることと、神の前に真実に正直に生きられるようになることです。

たとえ救いを受け、信仰告白をし、洗礼を受けても、もし罪を繰り返すなら、教会は警告をし、なお悔い改めない者はいったん救いの約束を解除し、洗礼前の救われていない状態にあることを宣告します。

信仰は人を造り変えます。悪魔の支配下から、神の国の一員とします。きよさと愛とよい実りとすすんで神に喜ばれることをする人にさせられていきます。

”しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。”  (新約聖書・ガラテヤ人への手紙5章22〜23節)

”ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。”   (新約聖書・テモテへの手紙第U 2章21節)

”そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。”   (新約聖書・ペテロの手紙第T 2章24節)

”それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。”   (新約聖書・テトスへの手紙3章8節)

”神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。”    (新約聖書・テサロニケ人への手紙第T 4章3節)


(3)一人ではなく共に生きることを教える有機的な信仰共同体論、それを「キリストのからだなる教会を信じる」という

 〜キリスト教のいう「救い」の中に、もう1つ大切な点がある。
  それは「教会を信じる」という信仰の中身だ。

  普通「神を信じる。キリストを信じる。人間が罪ある者であることを信じる。救いがあることを信じる。愛を信じる。天国を信じる。」などというのが、信仰の中身だ。

  けれどもキリスト教では、それらに加えて信仰の中身に「教会を信じる」ということが言われる。教会そのものが、信仰の中身なのだ。

  普通「教会」と言えば、信仰を持った人の集まる場所、礼拝堂や、信仰を持った人たちの団体のことだ。信仰の中身というより、信仰がもたらす結果としての外形のことだ。

“また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。”(新約聖書・エペソ人への手紙1章22〜23節)

“あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。”(新約聖書・コリント人への手紙第一 12章27節)

かしらがキリストであり、ひとりひとりはそのからだの各器官であり、全体としてキリストのからだと呼ばれる。そうしたことを信じる、というのだ。

私だけではなく、そうした有機的な信仰共同体を信じる。それは民族を超え、人種を超え、実はキリストがひとりであられるように、全世界でひとつである教会を信じる、という信仰なのだ。

だから実はキリスト教にとって、「教会」という信仰は、まことの神を信じる、神の自己犠牲(それがキリストの出来事)を信じる、神からの救いを信じる、といったことと並んで、中心的なことなのだ。

教会を信じないキリスト教信仰はないと言えるほど、大切なものなのです。

しっかりと「教会」を語り、「教会」の名をかかげ、「教会」を信じ、「教会」を誇りとする、世界大のキリスト教会を信じることが、神の啓示である聖書の中に表されている。


(4)死と復活

 〜さらにキリスト教信仰の「救い」の中に、死と復活のことがある。

  “私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパ(弟子のペテロの別名)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。”(新約聖書・コリント人への手紙第一 15章3〜5節)

最も大切なことは、キリストが死なれたこと、またよみがえられた(復活された)こと、と言われている。
   そしてそれは私たち人間の死と復活にも関係している。

死のことを言えば、人の死には@霊的な死、Aこの地上の生涯が閉じられる死、そしてB永遠の死があると語られている。そしてそれらの死に対して、なお死が最後の勝利者ではなく、死に打ち勝つ、死んでも生きる「復活」がある、と神が啓示している。

キリストは私たちに復活を与えるために、自ら死んだ後、その死の中より復活された。

@霊的な死は、私たちが、この地上で生きているように見えても、実は霊的には死んでいる、生ける屍、たましいというか心は死んでいる、そうした状態を言う。
   Aそしてこの地上の生涯が閉じられる一般的な死がある。生きて来た私たちがもはや生きてはいない、心も体も動くことをやめてしまう。この世での生涯が終わる、いわゆる死のことです。
   Bそして永遠の死。最後の審判で永遠の滅びを宣告されてしまう永遠の死がある。

復活は、そのすべてに勝利する。
   @霊的な死に対して、霊的な復活。私たちが生まれ変わって、罪や死の奴隷ではなくして、神のしもべとして新しく生きていくことができるようになる。Aこの地上の生涯が閉じられる死に対して、この地上の生涯が閉じられた後の復活、そしてB永遠の死に対して、永遠の復活。
   三重の意味があるのだ。

復活は次のことを意味している。(それぞれの死生観を否定している。)
   @地上での生涯が永遠に続くのではない。決して死なないとか、死が来ないとは言わない。どんなに神を信じたとしても、この地上の生涯が閉じられる時は来る。それは人が神ではなく、神の被造物、限りある存在であることを表している。神の前には本当に謙遜になる必要がある。(必ず死ぬ、でも復活がある。)

A死んだら終わり、ではない。死んだら「すべてが終わるのであって、その後は無になる、何もない」ではなく、神の前に立たなければならない。そのためにも死後の世界がある。

B霊魂不滅ではない。死は体だけが死ぬのであって、霊魂は不滅であって、霊魂が身体から抜け出ることが死だという考えがあるが、それを否定している。死ぬ時は、心も体もたましいも死に、それにもかかわらず、その全体が新しいいのちに復活する。その約束がある。(すべてが死ぬ、でも復活がある。)

C輪廻ではない。いのちの継続が何か他のものや動物に生まれ変わって、引き継がれていくのではない。死ぬけれども、同じ私が同じ人間として、神の前で復活して、それから永遠に生きるのだ。(他でもない、私が私として復活する=再び生きるのだ。)

死と復活のこと、それを正しく知ることが、人の救いとなる。
   聖書はそれを教える。天国への確信、 復活による永遠のいのち)

霊的な復活、この地上での生涯が閉じられた後の復活、永遠の復活。
   まことの神、主に感謝したい。
   あなたの身体も心もたましい(霊性)も、粗末にしてはならない。


 〜居場所の確保

  できることならば、早いうちに、少なくてもこの地上に生きているうちに、天国の居場所を確かなものにしておきたい。その時になってあわてないために。またどうしたらよいかわからないままではないために。また後の者たちが、「ああ、あの人は、確かに天国に行ったんだ」と安心して言えるために。


(5)神の栄光(すばらしさ)を現わす 

 〜“こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。”(新約聖書・コリント人への手紙第一 10章31節)

  それが人としての大切な道です。

  生きて、生きぬいて、神の栄光(すばらしさ)を現わす。


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すなわちこれは、
罪に勝つことができる、
死に打ち勝つことができる、
永遠の滅びに対して勝利することができる、
愛と祝福と勝利の人生である。




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 聖書の中に次のようなことばもある。

 “私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。”(新約聖書・ピリピ人への手紙4章12節)

 あらゆる境遇に対処することができる生き方なんて、すばらしいではないか。

 また“不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。”(旧約聖書・箴言30章8〜9節)

 必要なものが必要なだけ与えられて、神の道に導かれ、感謝と祈りの中で生きることができたら、何と幸いなことだろう。

〜生きた人格。生きた人。信頼と信仰によって生かされる。罪や死や滅びからも解放される。自分だけではなく他の人も神に愛されているかけがえのない存在。「キリストのからだなる教会を信じる」。そして死と復活を正しく受けとめる。それが「神の国に生きる道」。 「永遠のいのち」の道。

 キリスト教の救いは、こんなところにある。 
 あなたも勝利の人生を。 あなたの全生涯が、神の栄光(すばらしさ)を現わす生涯でありますように。生まれ変わって新しく生きる「神の国の一員としての」全生涯でありますように。

 “わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。”
(旧約聖書・イザヤ書43章4節前半)