A滅ぼし尽くす〜 罪や不正に対して徹底的に勝利する


<聖書にある「滅ぼし尽くす」教え>


 聖書、特に旧約聖書を読むと、「滅ぼし尽くす」教え、または実際に「滅ぼし尽くした」という出来事が出てくる。かなり衝撃的である。

たとえば(旧約聖書・ヨシュア記6章21節)とその前後。エジプトから解放され、長旅の果てに、いよいよ約束の地に入る。そこにエリコという町の城壁が崩れ落ちる劇的な場面がある。(紀元前1200年ころ?)
そこに主のためにエリコの町のものを「滅ぼし尽くしなさい」という命令が出される。(これは略奪のためではないから、誰も自分のものとして、個人の所有としてはならない。すべてを神のものとして、人間の手には入らないようにするための命令という意味もある。)
それを新改訳聖書という翻訳では「聖絶」という特別なことばで表している。
”彼らは町にあるものは、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した。”(旧約聖書・ヨシュア記6章21節)。要するに「滅ぼし尽くした」。一つも残さず、という強いことばである。

ただしそのすぐ前(6章18節)には、”ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。”(新共同訳では”あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。”)
そのような意味があるのだから、もしわずかでも「略奪」があったら、今度はおまえたち自身を「滅ぼし尽くすべきもの」として滅ぼし尽くす、と言っている。


(旧約聖書のエステル記9章5節)は、時代がずっとさがって(紀元前480年ころ)のことですが、ペルシャ帝国の時代に、ユダヤ人撲滅計画が、エステルという一人の女性の活躍で事態が逆転する、そしてその計画が取り消されることが記されている。けれどもその時、形勢が逆転した後、”ユダヤ人は彼らの敵をみな剣で打ち殺し、虐殺して滅ぼし、自分たちを憎む者を思いのままに処分した。”
自分たちの敵を「滅ぼし尽くす」行為である。

なぜ聖書は、そうしたことを記すのだろう。単に記すというだけではなく、聖書の教えとして記すのか。
(それが血の報復、血で血を洗う、神とは似ても似つかない、報復の連鎖に通じているではないか。)


旧約聖書は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、いずれも聖典とする。
ユダヤ教は、ある面、旧約聖書のみ。その上にその解釈として「タルムード」を重んじる。
イスラム教は、旧約聖書も使いつつ、「コーラン」に重きを置く。
キリスト者は、旧約聖書の預言と約束に従って、時を定めて救世主(キリスト)が到来し、旧約聖書のすべてに霊的な意味が込められていたが、そのすべてを明らかにし、全民族に及ぶ神の偉大な計画がここに実現した、それを新約聖書に記し、その全体が大切と信じる。

「聖絶(滅ぼし尽くす)」の教えに戻る。
私たちの真の敵は、実は悪や不正や罪。 人を根底から滅ぼし尽くそうとしているもの。 聖書は、そこからの解放と救いを教えようとする。

その時、その真の敵に対しては、きびしく言われている。 ある面妥協をゆるさない。

それを「滅ぼし尽くす」ことを教える。一掃することを教える。

悪や不正や、覚せい剤や麻薬、セクハラや暴力、虐待、それは大目に見る、というよりは一掃せよ。
根絶せよ、滅ぼし尽くせ。 そして神を信じ、神の聖なる民として生きよ。

人は完全ではない。 恐ろしくも愚かにも、罪を犯してきた。 悪や不正、ウソやごまかし。 ねたみやうらみ。
聖書は、すべての不義、愛のないこと、なすべき正しいことを知っていながらそれを行なわないこと、すべて信仰によらないこと、なども罪だと言う。

聖書は、愛とゆるしを説く。そして聖なる民として生きられることも説く。そして人をさばくな、真実と謙遜なども語る。

「おかげさまで
や、多くの身代りや犠牲もあったことを説く。

本来は一掃すべきもの、根絶すべきもの、それをそうせずに一部残しておいたために、解決できない、あるいは再びそれが大きく芽を出し育ち、時にはそれに占領される問題があることを教えている。


(自分に都合よく、相手にだけはきびしく、ではなく、謙遜に、けれども確かにそれは一掃すべきだ、といったきびしさも、謙虚に学びうる聖書の読み手でありたい。)

真の私たちの解放のために。

そして、悩む者、苦しむ者、弱き者の救済、 いや「被害者の救済こそ」をより積極的に説く聖書の視点を忘れないでいたい。


   ・・・・・・・・・あなたのために「聖絶」の犠牲があったことを忘れるな。



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                     <キリストの絶対平和主義>

 悪や罪を絶対的に滅ぼし尽くす、すなわちそれを正義とすれば、それは確かに正しいのだけれども、滅ぼし尽くす立場と、「平和」ということが、対立することが考えられる。
 現在では、この滅ぼし尽くすは、やはり悪魔や不正や罪に対して言われることであり、特定の人や国に対してではないであろう。
 聖書の中には、古い時代のいくさや戦いの様子が多く出ている。ある面ではうんざりするほどである。人類の歴史である。
 それでも、聖書の中には「平和」のこともまた数多く示されている。そして新約のキリストにおいては、より一層そのことが強く打ち出されていると言える。

 聖書における「平和」に関することばをいくつか挙げてみる。

悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。(詩篇34:14)
一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言17:1)
義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。(イザヤ32:17)
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)
あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18)
そういうわけですから、私ちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。(ローマ14:19)
どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。(ローマ15:33)
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、(エペソ2:14〜15)
それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。(エペソ2:17)
あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。(ピリピ4:9)
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。(コロサイ3:15)
平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。(第Tテサロニケ5:23)

どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。(第Uテサロニケ3:16)
悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。(第Tペテロ3:11)

 ただしこういうことばもある。

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。(マタイ10:34)

〜ただしこれは、真実を貫こうとする時に、人から受け入れられないことがある。ただ迎合して人と同調することだけが善ではない、との意味です。
 その点から言うと、日本的な「和」が、平和をも意味して一見おだやかなものを連想させるが、時には、「和合」だけが強調されて、個人や異なった意見を異端視したり無視したりする、とても排他的な内容になることと、対比できる。

 やはりキリストは、歴史の上に立って、愛とゆるしを解き、何よりも平和を説いた、お方だ。
自らを犠牲にしてでも、愛を貫いた。

「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に(恥入るような)炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:21)とのことばもある。

 罪や不正の根絶を求め、絶対平和を求める。これを基準とし、正義と平和(愛とゆるし)に立つ。

 民族を超えた世界大の平和を求めたい。そのためにこそ祈る。戦争ではなくあくまでも平和を!

(軍隊も自衛隊くらいまでの方がよい。力で押すだけではなく、すすんで、基本的人権を守り、(信仰の)自由を擁護し、普遍的な真理をもって語りかけていく積極的な外交など、が求められる。)



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                        <ネット動画の時代>

〜インターネットの動画が誰でもいつでも、載せたり、見せたりすることができる時代になっている。
 そしてついに、テロ集団が、人殺しをする場面を撮影し、公開するようになった。
 人々が裸をさらすこともある。一瞬にして世界を駆け巡る。ある面、イヤな時代です。

 これとどう付き合い、どう用いていくのか。考えていきたい。



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                         <天国は超満員!?>
                             〜この世でしっかりと生きることの大切さ

 最近、仏教形式の葬儀などに行っても、挨拶や人々の思いとして「天国」ということばが自然と出ている。「天国」に行ったんだね、「天国」でまたお会いしましょう、など。
 仏教で「天国」という考えがあるか定かでないが、聖書では「天国」「神の国」という考えは明示されている。なぜか「極楽」に行ったとはあまり言わない。表面上の表現としてだけだったとしても、やや聖書的な表現が一般化していることは喜んでよいと思う。

 ただし少し気になってもいる。
 死んだら誰でも行ける「次の世」のことを指して「天国」と言っているように思えるからだ。亡くなったから「天国」だね。「天国」に行ったんだね。そう言いたい気持ちもわかるし、そう言って慰めともしたいという気持ちもわからないわけではない。

 合わせて最近心に留まっていることばがある。全能のまことの神様に(=どんなことでもおできになる万能のお方に)、どうしてもできないことがある。それは「罪を犯すこと」と「天国に罪を入らせること」だ、ということばだ。
 死んだら誰でも無条件に「天国」に入れるのだろうか。そのために「冥福」(かの世の祝福)を祈るのだろうか。亡くなったら誰でも即「仏さま」だし、そこは「天国」なのだろうか。極悪人でも、どんな罪人でも。
(だったら気楽なもんだ。食べて飲んで楽しもうではないか、とならないだろうか。)
神様のカの字も考えてこなかった者が、死を迎えてあわてて「天国」ということばにしがみついているような感じもする。

「天国」は罪のないまことの神、主がおられるところだし、神様は天国に罪を入らせることはおできにならない。好き勝手をし、神様のことを考えもせず、悔い改めもしなかった者を、そのまま天国に入らせることはできないのだ。
 私たちは、生きている時から、全世界の創造主であり、まことのいのちの与え主であるお方を信じ、できれば罪を犯さない生活をし、はっきりと「次の世」のことも教えられ確信し、それゆえにそこが「神の国」であり、「天の御国」であることを信じて歩める生涯を送るべきなのだ。
 その「天国」に入れる神様からの手段が、神の自己犠牲、イエス・キリストの出来事だとすれば、それを信じて神と共に歩むことこそ、必須の道なのだ。

 それを知ることなく「天国」だけが大安売りされているとしたら、そんな悲劇はない。

 昔、キリスト教の歴史の中にも、りっぱな聖人の自分を救うだけの功徳よりももっと余るほどの功徳を持った方の功績を、チャリンとお金を出して買い取れば、それが買った人の救いになると言われて、「免罪符」が売られた時があったが、ただちに抗議が行なわれ「プロテスタントによる宗教改革」が行なわれた。

 死ねば「天国」に行ける。でも何となくそれだけではさすがに虫がよすぎる気もするので、せめて供養をする、「成仏」を祈る、「戒名」を買う、お仏壇で祖先参りをする、そんなことを仏教界がしているとしたら、滅びだ。

 神を信じて、キリストの贖いを信じて、罪を悔い改めて、罪のゆるしをいただいて、はじめて「天国」にも入れるのだ。
 歴史上のすべての人が入っても天国は満員になることはないけれども、何にも考えもせずに「天国」「天国」と言っていれば、それだけで本当に天国に入れるとしたら、<天国は超満員!?>となっているのだろうか。

 心して「この世のこと」もしっかりと考え、心して「かの世のこと」も考える人生でありたい。
 「この世で」(しっかりと!?)「生きること」の大切さをも、忘れてはならない。

 まことの神、主イエス・キリストからの祝福と導きとを心よりお祈りいたします。