C 被害者救済




   <聖書は被害者救済の書>


 聖書は何よりも被害者救済を語る神からのことばだ。

 罪の被害に苦しむ者、犯罪の被害に悩む者、セクハラや暴力の被害に身も心もズタズタにされた人々、そのような人々を助ける神からのことばだ。

たとえばイエスのことば  (新約聖書・ルカの福音書10章30〜37節)
”10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」”

 ここに強盗に襲われ、半殺しの目に会った被害者が出てくる。しかしここで、至れり尽くせりをして被害者の救済をした「あるサマリヤ人」が登場する。そしてイエスは言われる。「あなたも行って同じようにしなさい。」
ここで是が非でもこの被害者を襲った強盗どもを捜し出して「お前たち何をしているんだ。そんなことをしていたら、滅びだぞ。早く罪を悔い改めて真人間になれ。」とは記されていないのです。もちろんどこかでいつかその強盗どもに出会うようなことがあったら、罪を指摘し、心から悔い改めて、そして被害者に弁償をして、被害者からももう充分ですよ、と言われるような回心をしたら、彼らの罪も過去のものとしてゆるしが与えられることはある。しかしそれ以上にまず被害者の救済に全力が注がれるのだ。

同じく(ルカ福音書の19書1〜10節)に回心をした「取税人ザアカイ」という人物が登場する。
”ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」”(新約聖書・ルカの福音書19章8節)
今までに自分が被害を与えた者がいたら、4倍にして償います。被害者の救済に努めます、と彼は約束をするのです。それをキリストが喜ぶのです。もちろんザアカイのゆるしや救いも喜ばれている。しかし何倍にしてでも被害者にわびること、救済すること、ゆるしを乞うこと、罪を繰り返さないことが示されている。

売春婦(性犯罪のむしろ被害者。加害者であることもありうるが)の救済、重病人の救済、失われた者の救済、悩み苦しむ者の救済。それらを語る。
100人の中のたった1人の失われた者の救済を語る。

罪のゆるしは、悔い改めと償いと、相手がゆるしてくれること。誰かが身代わりの血を流してくれること。
神から来る救い。それは身代わりの犠牲。キリストは最後は、罪の被害者でもあり加害者ともなってしまった罪人の救済のために努めた。それが十字架でもある。

ただ一方的に、神の救済の意志のゆえに。
しかしそれ以上にそこに、より直接的な被害者がいた場合は、彼らの救済こそを語るのが聖書なのだ。

「目には目で、歯には歯で」、これは何よりも、せめて相手に与えた被害と同程度は弁償せよ、そして被害者を救済せよ、とのことばだ。

エジプトで奴隷とされて苦しむイスラエルの民、その苦しみと圧政の被害の中からの救済、そこから旧約聖書は再出発している。

「最も小さい者の一人」の救済、そのために来られたキリスト。 むしろ被害者こそ、その最も苦しむ、忘れられた一人である。


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その上で、罪人(つみびと) (=人間  =加害者) のゆるしと新生(新しく生まれかわり、生きること)を説く。

あなたもゆるされ、救われます。


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被害者の救済ぬきに、強盗だけがただで救われるような「福音」の受けとめ方は、神の国をゆがめるものだ。

悔い改めて福音を信ぜよ>