@犠牲〜 身代わりの犠牲を通してでも救う神の愛

 <十字架のこと>

聖書の教えのポイント〜それは十字架
教会の屋根にもついているし、ペンダントにつけている人もいる。
イエス・キリストが十字架につけられたことも知っている。

十字架は、死を表す。犠牲を表す。命がささげられることを表す。

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 人は自分で生きているように思うが、実は多くの他の命の犠牲によって生かされている。 「食べ物」の犠牲。命あるものを食べて、その犠牲があって初めて生きる。

日本では食事の時に「いただきます」と言う。もちろん目の前にある食物を感謝して、それをこれから「いただきます」という、すばらしい感謝のことばだ。
同時に、これは「お命、いただかせていただきます」。穀物や野菜や果物、そして魚や肉の「命」をいただかせていただきます。

 身代わりとなった命のことを決して忘れるな。多くの植物、動物、命あるもの、の。
 そのおかげで、生きている。生かされている。感謝する。「おかげさまで」。

旧約聖書の最初の書、この全世界、全宇宙の創造を記した「創世記」に、人や動物に「食物」が与えられたことが出てくる。

”神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。” (創世記1章29節)
”生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。 しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。” (創世記9章3〜4節)

食べ物が、他の命あるのもの犠牲の上に成り立つ。
小さな命が、より大きな命のためにあり、中にはただ食べられるために存在しているような命もある。

その命の身代わりの犠牲があって、あなたは生きている。そのことを忘れないためにも、聖書は記された。

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旧約聖書の中に、聖書の民であるイスラエルの民族が、奴隷のようにされていたエジプトの国から解放されて、助け出される「出エジプト」の出来事が出ている。

そこに一見、残酷とも思える出来事が記されている。
その時、エジプト王ファラオ(パロ)が簡単には、イスラエルを手放さなかった。そこで神様がいろいろな災難や災害をエジプトに送った、という出来事だ。
そして何度やってもエジプト王が心をかたくなにして言うことを聞かないので、ついに最後は、エジプト中の人や家畜の初子を打つ(滅ぼす)というのだ。そして実際にそのことが起こった。
その悲劇のゆえに耐えられなくなったファラオがついに「出て行ってくれ」と懇願するのだ。

神の民を救い出すために、異教徒は犠牲になるのか! なっても良いのか。
神は、エジプトの幼な子を忘れなかった。

その出来事の後、イスラエルの民にお命じなった。
「あなたの知らない所で(あるいは離れた所で)、直接あなたとつながりのない命が犠牲となった。あなたがたの命はその犠牲の、身代わりのゆえに助けられた、とも言える。それを決して忘れないように。」


私たちも実は、多くの犠牲の上に助けられている。知らない誰かが。あなたのお母さんが産みの苦しみををしてあなたは生まれた。身代わりとなってもよいという祈りがあった。

誰かの犠牲のゆえに。命の身代わりのゆえに。  食べ物一つとってもそう言える。

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〜それに加えて、人は愚かにも罪を犯してきた。
 罪をゆるすのは、悔い改めと償いと、相手がゆるしてくれること。

 誰かが身代わりの血を流してくれること。

 神から来る救い。身代わりの犠牲。それが(キリストの)十字架。

〜十字架は、犠牲を教える。身代わりを教える。愛を教える。
「いただきます」を教える。「おかげさまで」を教える。

〜人は「十字架のことば」によって、正しい道に導かれる。罪からの救いに導かれる。
まことの愛に導かれる。死と復活に導かれる。永遠のいのちに導かれる。神のもとに導かれる。
神の国に入れる。謙遜を学ぶ。「おかげさまで」を学ぶ。

〜また、自分と他者、個と全体に導かれる。


エジプトの初子の犠牲があって、その犠牲(身代わり)のゆえに救われたイスラエル。
人は気がつかなくても、誰かの犠牲のゆえに、今代わりに生かされている面がある。

自分の存在と生存の裏には、ほとんど関係のない人の犠牲があって、という事実がある。それを忘れるな。それゆえむしろまことの神を知り、神を信じ、神のものとして、生きよ。

エジプトの初子が犠牲になり、イスラエルが犠牲になり、イエスが犠牲になり、(あなたの親や友が犠牲になり)、それによってあなたは生きながらえてもいるのだ。

犠牲と身代り。

「いただきます」(お命、いただかせていただきます)と、その「おかげで」(おかげさまで)

イエスを信じるとは、そういう意味があるのだ。(イエスが永遠の身代わりとなってくださった。永遠の犠牲となってくださった)

〜イエスの十字架は、そういう犠牲と身代わりと愛とを表している。

 「いただきます」と「おかげさまで」を忘れるな。

〜食べ物の犠牲、動物の犠牲(創世記)、代わりの命の犠牲、人間の犠牲、親や友人の犠牲、・・・・ 初子の犠牲(出エジプト記)、イスラエルの犠牲、イエスの犠牲、

〜人は愚かにも罪を犯してきた。
 最初の罪(アダムとエバ)、すでにその時、救済と犠牲(身代わり)の働きが始まった。 女の末からの言及。 皮の衣を着せた。(創世記)
 罪を贖う命の身代わり。

十字架は、「いただきます」(命の犠牲)と「おかげさまで」(感謝)と、そして「罪のあがない」と人の「生まれ変わり」を表している。


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十字架を見る時、犠牲を思う、身代わりを思う。
罪のための身代わりを思う。
あなたへの愛を想う。

人は誰でも、十字架によって、人の真実な姿に導かれる。
救われる。罪ゆるされる。

だから、そのしるしとして「十字架」を心に刻む。そのことを記した聖書に近づく。
あなたの身近な所に。





「贖う(あがなう)」

聖書の思想の大切な点に「贖う」あるいは「贖い」がある。
「贖う」は、代わりに代価を払って買いもどすこと。一般には「お金や品物で、罪や失敗の埋め合わせをすること」と言われている。

旧約聖書・出エジプト記13章12〜15節に次のように出て来る。
”13:12 すべて最初に生まれる者を、【主】のものとしてささげなさい。あなたの家畜から生まれる初子もみな、雄は【主】のものである。
13:13 ・・・(だから)あなたの子どもたちのうち、男の初子はみな、(ささげる思いを持って、代わりのもので)贖わなければならない。
13:15 パロが私たちを、なかなか行かせなかったとき、【主】はエジプトの地の初子を、人の初子をはじめ家畜の初子に至るまで、みな殺された。それで、私は初めに生まれる雄をみな、いけにえとして、【主】にささげ、私の子どもたちの初子をみな、私は(その代わりのもので)贖う(買いもどす)のだ。』”

特に初子と言われているが、本来はすべてのものは主のものだ。
だから本来は、すべてを主のものと認識しなければならない。ある面では、主のものとして主にお返しをする、主にささげる。そのくらいの思いを持って、主を認識する。

しかし聖書はここで、そのように本来は主のものとして返される、ささげられるべきものを、代わりのもので「贖って(買いもどして)」、主のものとして認識しながら、なおこの地上で私たちが生きる道を示しているのだ。

旧約聖書では、人間の代わりに、身代わりの羊が贖いとしてささげられた。本来はあなた自身が神のものですよ、として。また「罪を贖う」という思想も取り入れられた。
本来は私が受けなければならない、罪の代償として、悔い改めと祈りの中で、「贖い」があれば罪ゆるされると。

後に動物犠牲に代わって、キリストが「永遠の贖いの子羊」としておぼえられた。
本来は、私が神、主のものである、また神の前で永遠の「罪のゆるし」が必要な者である、と。
しかし、そのことが認識され、私のためにキリストが「身代わりの、贖い」となられて、私は死なずに、なお罪ゆるされて生きることができるようにされたのだ、と信じる時、私は神のものとして、また罪ゆるされ、罪の支配下から解き放されたものとして生きることができる、

これが「神の贖い」として、おぼえられている。


身代わりの犠牲を忘れるな。
「神の贖い」を知って、神の前で、生きよ。

これが聖書の思想となっている。

キリストの(身代わりの、贖いの)十字架を知って、神の前で生きる。
これが、人を正しく生かす、神によって生かされ続ける私たちの道である。










<参考> <こんな聖書のみことばと解説もある。>

C.H.スポルジョン師の「朝ごとに」からの引用です。)

◆血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。 
(新約聖書・ヘブル人への手紙9章22節)


これこそ動かせない真理の声である。ユダヤ教の儀式では、たとえ形式的にでも、血を流すことなしに罪が除かれることはなかった。罪は贖いなしには決して赦されない。それゆえ、私にとってキリスト以外に望みがないことは明らかである。罪の贖いにふさわしい血は、主の血以外にないからである。私はキリストを信じているか。キリストの贖いの血は自分のたましいにも適用され得るか。どのような人も、キリストを必要としている。私たちは本当に道徳的で、寛大で、優しいだろうか。もしそうでなければ、この法則は私たちに適用される。私たちの罪を贖う力は、神が贖いのために定められたキリストの血潮以外にはない。ただ一つの赦しの道が開かれていることは、なんという幸いであろう。なぜ他に救いを求めようとするのか。

ただ形だけの宗教を重んじる人々は、私たちがなぜキリストによってすべての罪が赦されたと喜ぶことができるか、理解できない。彼らの善行、祈り、儀式はほとんど彼らに慰めを与えない。彼らの不安は当然である。なぜなら、大いなる救いを無視し、血なくして罪の赦しを得ようと努力しているからである。

私のたましいよ。座して待て。そして、神の義が罪を罰するのを見よ。その罰がすべて、あなたの主ご自身の上に課せられることを思い、喜びに身を投げ出し、血潮をもってあなたを贖われた尊い御足に口づけせよ。良心の呵責を、感情や他の人の罪悪の実例をあげることによってまぎらわせようとするのはむなしい。

罪に悩む良心が回復される唯一の道は、十字架上に苦しんでおられるイエスを見ることである。レビ記の律法には「肉のいのちは血の中にある」とある。そしてそのいのちには、信仰、喜び、その他のすべての聖い恵みが含まれているのである。

 喜ばしいことは、救い主の
 尊い血潮の流れを見
 神との和らぎを得たことの
 聖い証しを知り得ること









<参考> <海の魚介類たちの食物連鎖>

私たち人間が食べる体重100キログラムのマグロが生きていくためには1トンのイワシが、1トンのイワシが生きるためには10トンの動物プランクトンが、10トンの動物プランクトンが生きるためには、100トンの植物プランクトンがそれぞれ必要だと言われている。